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「死」の瞬間の曖昧さ-episode.2 「まるで生きてるみたいだ」

卵巣がん末期のおばあちゃんと、認知症のおじいちゃんの二人暮らし。

いよいよおばあちゃんには、死が近づいていた。

意識は遠のき、呼吸の回数がゆっくりになっていった。

全国各地から帰って来た娘たちや孫たちに囲まれる中、僕は、旅立ちは今晩か明日になることを伝えた。

おじいちゃんがおばあちゃんの顔を撫でながら言った。

「まるで、生きてるみたいだ」


いやいやいや、まだ生きてるんだよ!

って、娘も医療者も総ツッコミ。大切な人が死ぬ時間にも「ツッコミ」は存在してるなぁ、なんて思って見てた。

で、もうひとつ感じたことが。

確かに、心臓はまだ動いているし、呼吸もゆっくりだけどしている。

科学的、医学的な線引きなら、間違いなく、生きている。

しかし、下顎呼吸をしている、おばあちゃんは、
もう一度目を覚ます可能性は、ない。
二度と目を覚まさない、ところまで。「死」の方へ近づいてしまってるんだ。

おじいちゃんにとって、もう二度と昔のようには会えないおばあちゃんに。「まるで、生きてるみたいだ」って。

そうだよね、ホント。そう思うよね。


「死」は関係性の中で、時間軸を持ち、拡がったり縮まったりする。

もっとも縮めてみるのが得意で、しかも他人で、病気をきっかけに出会っただけの「医者」がモノサシを振り回すと、死は瞬間になる。

家族や、その人との時間が大きく広がった人が、しかも医者のモノサシに忖度しなくてもいい場所で見れば、死は壮大な時間を持つ。


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