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「死」の瞬間の曖昧さ-episode.1 死に目にあうってなんだ!?

「死に目にあう」ってどんなイメージでしょうか。
大切な人の死ぬ瞬間にそこにいること?
「ご臨終です」って医者に言われる時に立ち会うこと?

「死に際に立ち会うこと」なんて書いてある辞書もある。

じゃ、死に際ってなんだろう。

在宅医療の現場で「家で最期の時間を過ごしたい」と希望する父親を支えて、半年一年、とケアに関わって来た家族が、たまたまベッドのそばを離れている時に、息を引き取った時、「こんなに頑張って来たのに、死に目にあえなかった」という嘆きを発していた。

死に目にあう、って息をひきとる瞬間にそこにいることじゃ、ないでしょ。ってその嘆きを聞いていて思ったの。

この半年、一年、いろんな思いをしながら、笑ったり怒ったり泣いたりしながらお父さんを支えて来た、この時間。

この半年とか一年、っていう時間が「死に目」なんじゃないですか?
と、家族に話しかけていました。そう思ったから。

危篤状態になったら家族を集めて寝泊まりさせて、その瞬間にそこにいることを演出する「病院での死」の印象が強いのかもしれません。その瞬間しか「死に目」がないから。

ちなみに、自宅では「危篤状態」ってほとんどありません。病院では意識不明になって数日から数週間の時間があり、家族や親戚が集まらされます。自宅では、過剰な医療をしないからだと思いますが、亡くなるその日まで話していた、食べていた、風呂入った、なんて人が多くいらっしゃいます。亡くなる前に宴会するから、と家族や親戚が集まらされることはあります。

しっかり向き合って、本人にもちゃんと本当のことを伝えて、その時間を大切に過ごした家族は、死に目の過ごし方が上手です。

朝一番の往診で「今日中に亡くなる可能性が高いです」と伝えたところ、「そっか・・・、お父さん、ありがとうね。頑張ったね」っとひとしきり抱き合った後、「さ、じゃ、時間だから仕事行くねー」と娘。涙を拭きながら「気をつけて行ってらっしゃい」と妻。
若かった僕は「え?仕事行くんですか・・」って思っちゃった。
普段どおり過ごす時間の中で、お父さんを見送る。当たり前の日常に帰って来たお父さんは、それを望んでいるんだな、と。そして家族がそれをちゃんと受け取っているんだな、と、自分の浅さに気づいた一瞬でした。

また別の家族。夫婦二人暮らし。奥様が息を引き取られて、午前4時の往診。男泣きの夫。大ベテランの訪問看護師さんも泣いている。
僕も、関わって来た時間を振り返りながら、早朝で慌てる理由もないのだから、ゆっくりそこに佇んでいた、その時。涙を拭きながら、夫は立ち上がった。「さ、時間だ。魚の仕入れに行ってくる」 魚屋と仕出し屋を一人で営む彼は、河岸に出かけるというのだ。「え?いやいやいや、今、亡くなったばっかりだし、仕事は休むもんじゃないの?」と思ってる隣で、ベテラン看護師は涙を拭きながら「気をつけてね」と見送っている。
今、この部屋にいる三人の中で、ズレているのは明らかに、僕だ。
なんだ、これは?

生活は流れ進んでいて「死」もその中に自然とあるもの。そこにメリハリや区切りを意識しすぎている、僕。医者。

この家族のように流れを自分たちの中で感じている人たちは、医者以上に「死」は受け入れられるもの、なのか。なのだろうか。

死に目、って少なくとも一瞬じゃない。何日とか、何週間とか、何ヶ月とか。何年とか、もある大きな時間の感覚なのかも、しれない。

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