早上がりは未知の味
「オレンジ君今日は早く帰っていいよ」
サービス業、客商売の類は客が来なければ成立しないのであり、ただ立っているだけのスタッフは店にとっては高級な案山子である。
「了解です!じゃあお先に失礼しますね!」
家路に着き始めた時間は20時58分、定時で上がっていたであろう時間よりは約1時間と2分早い。
予期せず生まれた自由な時間と来月に振り込まれる給料の僅かな減少に思いを馳せながら夜道を歩くと一軒の店の前で足が止まった。
大通りから少し外れた所にある少し…ではなく古い佇まいのその店はこの世の最新を詰め込んだオフィス街の隙間にあるような店だった。
通りがかるだけで印象に残る店ではあったが、通勤以外ではまず通らないであろう立地と軒先に置かれた看板に書かれた営業時間が自分がシフトに入っている時間とぴったり合ってしまっているという理由で今日まで入れずにいたのである。
しかし今日の自分はシフトなどという道からはとっくに外れてしまった人間である。 偶然という見えざるものに背中を押され、ガラガラという音と共に店の戸を開けた。
「いらっしゃいませ 空いてるお席にどうぞ」
サザエさんのフネさんのような格好と顔をした女将にうながされカウンターの席に座る。
店内は外観に負けないくらい古風な内装にカウンターが四席とテーブルが一席、橙色の蛍光灯が店の隅に暗さを残しながら暖かく店を包んでいた。
時が止まったような店内の雰囲気にさっきまで店の外でしきりに時間を確認していた自分を少し恥ずかしく思いながら目の前に置かれたメニューを開く。
「この…晩酌セットと…お刺身3種盛りを一つで…晩酌セットのお酒は…芋のロックでお願いします」
注文さえすらすら出来ない自分はこのお店の雰囲気に馴染むにはまだまだ人生経験も浅く若すぎることを自覚させられた。
まだお酒を飲んでもいないのに赤くなってしまったその若い客に女将は蔑むでもなく呆れるでもないような優しい微笑みを浮かべながら厨房へと消えていった。
ほかに客もいない店内の中に取り残された自分はお冷で色々な気持ちを飲み込みながら店の角にある小さなテレビに目を向けた。
映っているのはなんの変哲もない天気予報だったが、この空間の中ではテレビが色付きで映っていることさえ少し場違いであるように感じられる。
生まれて初めてテレビに親近感が湧いた瞬間だった。
「お待たせしました どうぞ」
薄く切った鴨肉とネギを少し炙った物とさっきまで生きていたかのような光沢の刺身が目の前に置かれ、店の灯りを吸ってキラキラと光ったグラスに入った芋焼酎がその横に添えられた。
先ほどまでの緊張などすぐ忘れ、箸で先ずは鴨肉を一切れつまんで口に放り入れた。
…っ!一度噛んだだけで肉から品よく溢れる肉汁と程よいレア感の赤身の美味さが混ざり合い確かな満足感が喉を通り抜けた…。
次なる満足を求め刺身も口に運ぶ。
…っ!口の中でもまだ身がそりかえっているかのようなしっかりとした食感とくどすぎない脂と強すぎる旨味が再び確かな満足感をもたらした…。
合間に飲む芋焼酎は飲み口は非常に優しい一方で酒の熱が喉を通りお腹の中でもまだ暖かさを感じるような力強さを持ったまさに芋焼酎といったものだった。
まだまだここに居たかったが、自分が閉店1時間前に滑り込んできた客ということを思い出して女将にお会計を頼む
「1900円です」
やっす
外に出てみればいつも通るビルに囲まれた道。 ただそんな中にもこんなところがあるんだなと家路についた。
今日の事をいつか誰かに話したいなと思いながら。
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