#01 赤坂唯一のまちの豆腐屋「伊勢幸 」伊勢友一さん
豆腐屋が港区に4軒。
そのうちの1軒が赤坂にあります。それがみすじ通りと一ツ木通りの間にある伊勢幸(いせこう)というお店です。
その店主である伊勢友一さんは生まれも育ちもずっと赤坂。そんな伊勢さんに家業のこと、赤坂の街のことを伺いました。
と、その前に軽く私の自己紹介を!
ドリーと申します。赤坂で生まれ育ちました。
赤坂は時代ともに景色を大きく変えながらも、伝統や文化、老舗店、そして地縁的なつながりも残るまち。
これからはどんなまちになっていくのか、あるいはどんなまちになったらいいなとみんな思っているのか。そんなことを考えていく一つの切り口として、赤坂にいる「人」にインタビューをしていくことにしました。
そして記念すべきお一人目がお豆腐屋さんの伊勢さん。
私が子どもの頃から伊勢家にはお世話になっており、慣れない取材も引き受けてくださりました。物腰が柔らかくて優しいお父さんです。ではインタビューに移ります!
「これからは○○よりもお豆腐だ!」
ドリー いつからお豆腐屋をやってるんですか?
伊勢さん 伊勢幸は明治27年創業で、こんにゃく屋さんとして始まったんだよ。京橋に本店があって、私のひいおじいさんの兄弟が赤坂に支店を出したみたい。
私の親が「これからはこんにゃくよりもお豆腐の方が売れるんじゃないか」と思い立って豆腐屋に商売替えをしてね。だから私は豆腐屋としては2代目だけど、伊勢幸としては4代目。
再開発で赤坂内をお引越し
伊勢さん もともと2丁目の方で商売をやっていて、この店舗には20年前に移ってきた。サンサン赤坂から六本木通りに向かって坂を下りてった出たところ、あそこの角がもともとうちだった。
ドリー ということは、ありたの八百屋さんの近くですか?
伊勢さん ありたはうちのとなりだった。よく知ってるね(笑)
ドリー つい最近「三代目ありた」というお店にランチを食べに行ったら、店主の方が実家がそのあたりで八百屋をやっていたという話をされていまして!
伊勢さん 森ビルの再開発でこっちに引っ越してきて。2丁目の頃は一般のお客さんが多かった。こっちに来てからは主婦の方は、ほとんどいない。数える程度。今はお店の人が買いに来たりとか、あとはやっぱり韓国の人。韓国のお店が多いから。
街とともにお客さんが変わっていった
ドリー 卸先も昔と今とでだいぶ変わりました?
伊勢さん 昔は食堂みたいなのが各会社にあって、そういうところに数を卸していたかな。50人いれば50食、100人いれば100食。結構そういうところで量が出てたかもしれない。
老舗酒問屋の四方さんの向かいの、今は2階が三九厨房のところ。あそこに昔あった大和交通っていうタクシーハイヤーの会社とか、溜池の方なんだけど鉄骨工場会社があってそこの食堂にも。あと昔はホテルとかにも入れてたけど、今はそういうのが全くないから、今と昔とで全然違うよね。
ドリー 昔のこのあたりはどんな風景だったんですか?
伊勢さん 今ではスーパー、コンビニが増えてしまったけど、昔は個人商店も多くて、パン屋さん、精肉店、魚屋さん、八百屋さん。なんでも商店街で買い揃えられた。だから買い物かごを持った主婦をよく見たかな。
あとこの辺は料亭も多くて、黒塗りの車がずーっと並んで、木造だからチントンシャン♪(三味線の音)が聞こえてきて。
お父さん、伊勢幸を継ぐ
ドリー お豆腐を作る父親の姿を見て「かっこいいなぁ」と思ったりしていたんですか?
伊勢さん いや。友達には「豆腐屋、豆腐屋」とバカにされている感じもあった。
それに若い頃はやりたいことももちろんあって、バイクとか車が好きだったからライセンスも取ってレースに出たいなとも思ってた。
でも、小さい頃から自分ちが豆腐屋だから、なんとなく自分がやるんだろうなぁと思って育ってきて、学校に通いながら仕事を手伝い始めていった。
"まちの豆腐屋"の今とこれから
ドリー コンビニに行けば何でも手に入る時代。個人経営のお店も続けていくこと自体が大変だと思います。そんな中でどんな想いや覚悟をもって豆腐屋をやらているんですか?
伊勢さん インタビューに対して適切な答えじゃないんだけど、今やめても他にやることないし(笑)。うちの豆腐がいいって買ってくれるお客さん、お店がある限り続けていこうとは思うけど。
二、三十年前は東京に豆腐屋が二千何百軒もあった。でも今は百二十軒。すっごい減っちゃった。おじいさん・おばあさんがやってて、どっちか亡くなったら後継ぎがいないから閉めちゃうから、なくなる一方。
ドリー 港区には何軒くらいあるんですか?
伊勢さん 港区は4軒。六本木ももうないし、麻布十番に一軒。高輪に一軒。
赤坂だって5軒あったけどうち1軒でしょ。すぐ近くで同級生の家も豆腐屋をやってたけど、なくなっちゃった。一ツ木町会長の出野さんも昔豆腐屋だったし。赤坂通りにもあったし。
伊勢さん 港区は豆腐屋なくなっちゃうんだろうなぁ。興味のある若い人がやりたいって事業承継ができればいいのだけど。まぁまぁ衰退していく商売かなぁ。悲しいけど。商売だからしょうがないんだけど。
うちもわからないかなぁ。この先何年できるか。やれる限りとは思ってますけどね。
ドリー 後継者候補はいないんですか?
伊勢さん (苦笑い)
改めて、赤坂ってどんな街?
ドリー 今では「住む場所あるの?」と聞かれないことはないほど、赤坂ってビジネス街というイメージになっているじゃないですか。そんな赤坂で生まれ育って、長年お店をやられている伊勢さんから見える赤坂ってどんな街ですか?
伊勢さん んー。難しいよね。赤坂ね。
ドリー なんで難しいんですか?
伊勢さん なんでっていうか(笑)あんまりにも街が変わりすぎちゃったから。人も変わっちゃったし。
今週お祭りあるじゃない。赤坂も意外とお祭りではまだ人がいる。でもここの新二町会はひどいよね。数えるくらいしか住んでないから。町会も機能してないかな。それでも御神輿は上がるからね。神輿が上がるうちはいいんだけどね。
伊勢さん TBSの向いの国際ビル、今壊しているところ。あそこは50年以上前は自動車教習所だった。あんなところにあったんだよ。普通の家もたくさんあったけど、もう面影ないもんね。ほんとに変わっちゃった。俺が昔の話をするのも変なんだけど、まだまだ俺よりも年上の人がいるんだけど(笑)
変わっちゃったなぁっていうのが一番強いかなぁ、それはちょっと寂しい部分があるし。
伊勢さん でもやっぱり子どもの頃の思い出が強いかな。学校が終わったら氷川神社とか公園で野球やって遊んだり、ふらふら駄菓子や友達ん家に行ったり。商売やっている家が多くて、友達もまだいっぱいいたな。
ドリー 最近の子どもたちは氷川神社で遊んだりしないですよね。
伊勢さん そうだよね~。
ドリー 思い出の店はあったりするんですか?
伊勢さん 浄土寺のところに赤坂幼稚園っていうのがあって、そこに通っていた。叔母が幼稚園終わった後に迎えに来てくれて、帰りにお汁粉さんに寄ってお汁粉を食べるのが楽しくて。
あんみつ、クリームソーダとかあった。昔のそういうお店が1軒、2軒くらいあったのかなぁ。そういうお店が懐かしいなぁと思うね。
伊勢さん そういえば、みすじ通りを赤坂見附の方に向かって真っすぐ進んで、青山通り出る手前に畳屋さんがあるでしょ?城所さんっていう畳屋さん。
ドリー 知らないです!
伊勢さん 赤坂にまだ畳屋さんがあるんだよ!畳ってことは和室でしょ。だんだんなくなってきてるもんね。どこの家もほとんどフローリング。ましてや一軒家がない。そこの畳屋さんは赤坂になくなってほしくないな。赤坂で畳屋さんと豆腐屋さんくらいじゃない、珍しいのって(笑)
ドリー そうですね(笑)
\伊勢幸さんの商品をちょっとだけご紹介!/
国産の大豆を使った「絹豆腐」
1日のはじまりには「手作り豆乳」がおすすめ!
小腹がすいたら「豆乳ドーナツ」
ドリーの編集後記
「叔母と幼稚園帰りにお汁粉屋さんに行くのが楽しみだった」と伊勢さんは話していましたが、実は私の幼稚園帰りの楽しみは伊勢さんの豆腐ドーナツだったんです。昔は伊勢幸のリヤカーが家の近くまで来ていて、母に買ってもらっていました。
作ってくれた人の顔が浮かんだり、些細な会話の積み重ねが、こうやって人々の思い出に残っていくんじゃないかと改めて思います。
まちの豆腐屋さんは家族でも気軽に買いに行ける、地域に根差したお店。
手作りのお豆腐を求めて伊勢幸に買いに行くことで、赤坂を離れたときも赤坂での大切な思い出になるかもしれません。
そして伊勢さんから赤坂のまちについてのお話を伺ったときに「変わっちゃったな」という言葉が何度か出てきていたのが印象的でした。
赤坂で生まれ育った人にとっては、この50年で気持ちが追いつかないスピードで赤坂のまちが変わっていったんだということを知りました。
そんな赤坂で毎朝豆腐を作って販売されている伊勢さん。「今やめても他にやることないし」と笑いながら話されていましたが、続けていく意志の強さを持たれた方だからできることだと思いました。
撮影:Shoichi
取材・執筆:山内翠(ドリー)
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