切れ端の手紙を
自分の頭は非効率的だ。まともに計算する力とか、常識的な歴史や文化とか、英単語とか、そういうのが全く入ってくれない。
代わりに、凄くどうでもいい、何の役にも立たないことばかりははっきり覚えている。
それといじめられ体質なのもあって、思い返してもいいことの無い嫌な思い出とかもはっきり覚えてる。
小四くらいの時、友達がノートの切れ端に「○○へ、すき」って書いてあるだけのラブレターを彼女から貰っていたとか、そういう無駄な記憶だ。そんなので俺の頭の中はいっぱい。これは俺が生きてて初めて見たラブレターだった。鉛筆の字はまるで色んな思いが籠ってカラフルなように見える、そんなものだった。
「ラブレター」という単語は知っているのに、中に何が書いてあるかなんて知らなかった。というかそもそも彼氏彼女の関係なんて小学生であるんだ、なんて、全く何とも無縁だった自分はそう思った。苦しさのない、純粋で真っ直ぐな「すき」だったんだと思う。その子にとってそんな思いでこの二文字を書けたのはきっとこれが最後だろう。
中一の頃にイタズラで「好きです!○時○分頃に○○で待ってます!」と言った旨の紙を机に入れられてたことがある。
ただそれは他の人で全く同じやり方をやったあとだったし、自分もそれを見ていた一人だったのだから、もっと上手くやれよと思って流した。どうせいじめられるならもっとテクニカルかつ派手でないとはっきり怒ることも出来ない。他人のコピペのいじめをされても仕方ないじゃないか。
小・中学生が無意識に武器にしてる純粋さ、浅はかさ、冷たさみたいなものはもう二度と触れられないんだと改めて感じる。
小学生時代に通っていた塾にクラス全員が自分宛に悪口を殴り書きした手紙を授業中に回して作り、渡してきたこともあった。別に自分が悪事を働いていたわけじゃなく、常に成績が悪かったからだ。内容も成績の悪さとかそういうものが主だった。
授業後すぐさま廊下にいたスタッフに声をかけたが、それは特に問題とされなかった。というか、そのスタッフの中で完結していて塾長などにすら伝えていないと思う。(これは自分が伝えた人をミスったのが悪かった。)
どうのこうのと伝えていると手紙の筆者達が教室から出てきた。スタッフはその手紙の筆者達数人に「これ書いたって聞いたんだけど、本当?」と聞いた。当然、誰も彼もが「私は書いてないけど?」みたいな反応。
事情徴収を行ったその人の手の中にあった手紙はそのままぐしゃっと丸められた。
別にこのことを今更どうともしない。みんな望んだ学校に進学してさぞかし順調なのではないだろうか。
「俺はみんなにそそのかされただけだから、ごめんね」と抜けがけをしていた君のことも覚えてる。
唯一の心残りはその手紙が自分の手元にない事だ。
というか、そのスタッフに報告した後の記憶は無い。覚えてないということは、きっと自分にとってどうでも良くないことが起きていたんだろう。
正直頭が悪いのは事実だったのでそう言うことを書かれてしまうのは仕方ない。ある意味すごく遠回りなラブレターだったのかもしれない。美化しすぎか?
でも自分はきっとまだ、その悪口ばかりが書かれた切れ端の手紙をずっと探してる。そんな事実をわざわざ殴り書いて渡してくる人達はもう周りからは現れないと思う。だからこれからもずっと探し続ける。そんなことをこのnoteの切れ端に書いてみたりする。