【六畳間物語】春なのだ【2】
道の両脇が桜色に染まり、もう春なのだと実感する。
―――私の主人が病院で寝込むようになり、かれこれ一年が経っていた。
食道から肺までがんに侵されてしまったようだ。それなのにあのバカ野郎はその時まで私になにも言わなかった。電話ではちょくちょく『死ぬ前に子供の顔を・・・』などと戯れ言をほざいていた。
「どうしても退院したいんです」
「だからね、田辺くん・・・」
医者の的確な正論など糞喰らえで、あのバカはちょくちょく退院してやらかして入院ということをしていたので、今回も退院したらやらかすに決まっている。もはや退院などしない方がいい。するなバカ野郎。
「・・・」
私は、以前バカとしたやり取りをふと思い出した。
「ねえ、由良」
「黙って寝てろ」
「言葉が仙人掌のごとくちくちくとしているね・・・由良、怒ってる?」
「怒ってなどいない」
事実、怒ってなどいなかった。心配させたことをいらいらとしていたが。
「そっか。ねぇ、由良」
「なんだ」
「僕さ・・・どんなに苦しくても、痛くても、最期はやっぱり家が良いんだよね。父さんや母さん、それに由良がいるあの家で散りたいんだよね」
「縁起でもないことを言うな・・・百歳ジャストで死ぬ呪いをかけるぞ」
「そ、それはそれで恐ろしい・・・けど、由良と百歳まで一緒なんて、生き天国じゃないか」
「私にとっちゃ生き煉獄だがな」
「酷いことを言う」
小心者で、臆病者だった私をこんなに生意気な奴にしたのはお前だろうが。小心者で、臆病者だった私に手を差しのべてくれたのはお前だろうが。
それなのになんで、なんで・・・そんなに弱々しくバカを言うんだよ。
「僕は、ヒーローになれなかったね」
「・・・」
「でも、六畳間主義者ではあったね」
「死ぬな、ばか野郎」
「あはは・・・それは・・・善処するよ」
それからなんやかんやで生き延びていたバカと私の間には息子がいた。
しかし、血は繋がっていない。それでも、心は繋がってるやら綺麗事を抜かしやがっていた。
やっとのことで退院できたのが白銀の風が吹く、十二月酷く凍える冬だった。
息子は小学校から帰ってくると真っ先に主人のところへ行き『六畳間主義者』のお話をして、とせがむのだった。
少しでも、父と居たい・・・そんな感情だったのだろう。
「良いかい、明久。男は泣くんじゃないよ」
「苦しいときも?」
「うん。痛くても、辛くても、泣いちゃいけない。男なら、我慢するんだ」
「お父さんは泣いたことある?」
息子がそう問うと主人は苦笑いし「あるよ」と言った。息子は笑い「あるんじゃん!」と言った。
「どんなとき、どんなとき?」
「母さんがはじめて僕に笑ってくれた時だ」
主人はいささか恥ずかしすぎるような言葉を惜しげもなく言ったもんで、私はつい顔を熱くする。あのときは本当に楽しかったから笑ってしまうのも無理からぬ話だろ。
「嬉しいときに泣くの?」
「ちょっと違うな。良いかい明久嬉しいときだから、泣くんだ
よ」
それからまた、少しして正月を迎えた。年末のあの芸人が公開ケツバットをされる番組を見て、息子は笑っていた。不思議なもので、笑い方が主人に似ていた。
「見辛れえ」主人がだだをこねるので見えやすくすると、ありがとうと言ってくれた。心が暖かくなるのを感じたが、それはきっと雑煮の温もりだろう。
「そうだ、人数が増えると一玉二玉増えるあの謎のシステムをお年玉に採用しようか」
「なんてことを思い付くんだ貴方は」
こんな会話をあと何回やれるのだろう。
「来年は・・・三人で旅行に行こう」
「えっ、旅行!!」
「良いねえ。六畳間記念館があれば」
「あってたまるかそんな記念館」
あと何回、このバカみたいな声を聞けるのだろう。
年が越して早朝。湯を沸かして主人を風呂にいれてやると、嬉しそうに眼を細めた。
新春のトーク番組が終盤に差し掛かるとお義父さんお義母さんがうちにやって来て、息子にお年玉を渡した。私もそのタイミングで渡した。
「ワーイ、ありがとう!」
「うんうん、感謝の言葉が言えるって偉いねえ」
「んぐっ・・・母さん、遠回しに僕を傷付けているよね?」
「あら? あらら?」
あと何回、この無類の幸せを噛み締めることができる。
そう思うと目の端が濡れてくる。
「大丈夫?」
「アッ、お母さん泣いてる?」
「違っ・・・いささか目から塩水が流れてきただけ・・・だからっ!!」
「そっか」主人は酷くやつれた指で私の涙を拭ってくれた。
「お母さん」
主人が私を呼んだ。
「バカみたいなこの僕を愛してくれて、ありがとう」
そう言う主人目尻には涙が浮かんでいた。
―――一週間後、主人は亡くなってしまった。
火葬場でも葬式でもずっと息子は涙を流さなかった。状況が理解できていないのだと思ったが、違うようで話を聞くと『うれしいときまで泣く気はない』とのことだ。
今日は、息子の中学校の入学式だ。
新品の学生服にスクールバッグ、学校指定靴に身を包んだ我が子を見るのは、嬉しいものだ。
天国でバカみたいに似合ってるよー!! と言っている幻聴が聴こえるようで不思議と心に暖かいものを感じる。見守ってくれているのだと。
息子を見送りしばらくしてから私も外に出る。随分昔のことの筈だがどうやら私は若き日の主人と並んで歩いていたのを昨日のことのように思い出す。
道の両脇が桜色に染まり、もう春なのだと実感する。