ホログラフィーアートは世界をめぐる 第7回 アンダーグランドアート―Retretti Art Center・Finland―
先日,ノルウェーの画家ムンクの展覧会に行った。絵を見ていたら久しぶりの北欧の白夜を思い出した。1994年春,私は展覧会準備のため,1か月間フィンランドに滞在していた。そこで,日本では見られない風景にたくさん出会った。
ムーミンの国の地下世界
フィンランドを初めて訪れたのは,クリスマスも間近の1993年12月末だった。翌年の展覧会の会場の下見のためだ。ユニークな会場環境なので既成の作品を並べるというより,そこの空間にあわせて作品を制作することが求められていたからだ。下見の話を聞いた時,冬の北欧?と少したじろいだ。冬のニューヨーク(緯度は秋田と同じ)は何度か経験していたが,そこよりずっと高い緯度だ。東京育ちの私には極寒の想像がつかない。できる限りの暖かい服装を用意し出かけた。首都ヘルシンキに着くと,街にはすでに根雪,時折雪が舞っていた。翌日の朝早く,展覧会のオーガナイザーに連れられて,ほかの参加予定のアーティストたちと一緒に大型バスに乗って会場へ向かった。ヘルシンキの街並みを過ぎ,高速道路も外れるとあたり一面真っ白な雪原に出た。その中をくねくねと曲がった並木道をバスに揺られること数時間。途中休憩地に建物を見る以外,目に入る景色はどんよりした雪雲の空と雪原と細い並木道だけであった。5時間ほどかけてやっとたどり着いたところは,ロシアとの国境に近い小さな村プンカハリュー。そこに,レトレッティアートセンター(図1)はあった。
ここは,世界でも例を見ない地下空間のアートセンターで,特筆することは自然洞窟や鉱山跡の利用ではなく,当初からアートセンターを目的として開削され建設された岩盤空間(図2)なのだ。天井や壁が花崗岩の地肌をそのまま生かし,自然で荒々しく美しい空間であった。ジュール・ベルヌのSF小説「地底旅行」,プロコフィエフのバレー「石の花」の世界さながら,私は長旅の疲れも忘れ,ワクワクした気分になった。
地表に顔を出している岩盤から掘り下げられた地下3~4階の空間には,大小様々な「部屋」が掘られ,まるでラビリンスのような複雑な構造になっている。開館は夏の3か月のみとのことだが,この地下のアートセンターには美術展示のギャラリースペースのほか,コンサートホール(700席)や本格的なレストラン,カフェなどが併設されて,空調や水の管理も整っていた。都市型のビルの地下建物でもなく,また,それまでの地下というジメジメとした暗いマイナスイメージを払拭した別世界が広がっていた。そして,何よりも気温が穏やかなことに気づいた。年間を通して12~13℃だそうで,下見の最中にも暖かいコートが邪魔になったくらいだ。
私は池のある空間に興味を抱いた。湧き出た地下水ではなく,制御された水だ。地下空間と水との組み合わせからインスピレーションを得て制作したオリジナル作品(図3(a))は,水とのコラボレーションの最初の作品で,翌年実現し展示された作品だ。この発想はその後,屋外の一連の池のインスタレーションへとつながっていった。
その日はUターンでヘルシンキに戻った。帰路,日はとっぷりと暮れてと表現したいところだったが,バスからの光景はあにはからんや,低く垂れた雲に覆われた空は遠くの街の明かりを反射させてほの明るく輝き,地表は雪原の雪あかりで暗い夜道とはならなかった。昼と夜の境目をトワイライトゾーンと言うが,フィンランドの冬はこの時間帯が限りなく長いことに気づいた。朝,ホテルの窓から空を眺めていると,深い青の色がゆっくりと明るさが増して変化する様子は,じっと待っていても気づくのが難しい。数時間に及ぶからだ。それまで北欧の冬は真っ暗な夜を想像していたが,現実はまったく違っていた。ほの暗い昼とほの明るい夜がかわるがわるきて,昼夜の区別があまりない不思議な毎日であった。ある時,ヘルシンキ郊外に住む知人の家に夕食に招かれた。車を降りるとすぐ家の前かと思ったら,ほの暗い雪景色の中,人が一人やっと通れるほどの幅に除雪された道をしばらく歩かされた。敷地の中は大きな除雪機がないので車が家の前に着けないという。途中,青白く平らな雪の上に四角くほの明るいオレンジ色に染まった部分があるのを発見した。不思議に思い立ち止まって訊ねると,それは数十メートル離れた隣りの家の窓からこぼれてきた電灯の明かりが雪面を照らしているのだった。繊細な光の環境にも慣れて,私の感覚も研ぎ澄まされてきたようだ。
防音とオートロックの家
翌年4月末,展覧会の準備に再びフィンランドをおとずれた。主催者からのサポートと,幸い日本サイドでも協賛を得ることができ,音の演出も加わった大規模なインスタレーションが実現した。今度はヘルシンキから空路(50分)で北に400 kmの現地へ向かった。空からの眺めは一面の森と湖沼以外,何も見えない。眼下に人の営みの痕跡を探すのが難しいムーミンの国であることを実感した。冬の雪原は草原ではなくて,水面だと悟った。その間を縫うように走る細い道をバスは走っていたのであった。展覧会オープンの1か月前に会場に入り準備をすすめた。リゾート地の一角にアートセンターはあり,周辺の森の中に宿泊施設としてコテージが立ち並び,敷地内にはレストランやカフェが併設されている。私のインスタレーションには日本から岩盤と音響のエンジニア,作曲家の天山氏,私を入れて総勢5人のチームがそろった。到着した4月下旬は周囲の湖にはまだ氷が残り,施設のレストランも準備中で稼働していなかった。エアコン,台所,サウナ,シャワー完備の快適なコテージが,私にもまるまる一軒与えられた。敷地内の住人はまだ我々だけであった。12月に比べ,昼の時間も驚くほど長くなっていた。
ある日,夕食を済ませてゴミを捨てに外に出た。玄関のドアは2重になっていて結構重く,すぐにバタンと閉まる。その音を聞いて「しまった!」と気づいたが時すでに遅し。鍵を持たず外に出てしまったのだ。オートロックだから自動的に鍵がかかってしまう。かなり気をつけていたのだが,ついうっかりの失敗である。大急ぎで管理棟に行ったが夜間は帰宅して誰もいない。レストランの施設もまだ準備中。あとは,少し離れたコテージに泊まるチームの仲間に助けを求めるしかない。暗くはないが,人気のまったくない敷地を横切りたどり着くや,玄関ドアを激しくたたいたが反応はない。ドアには呼び鈴がなく何度たたいても音が伝わる様子はない。コテージは数部屋もある広い家だ。窓を覗くと電気はついている。まだ全員寝てしまったわけでもなさそうだ。しかし,窓が高すぎて中がよく見えない。広い家だから,人がどこにいるかもわからない。窓ガラスをノックしても,2重窓だから音はまったく伝わらない。大声で叫んだがなしのつぶてだ。外気の気温はだんだん下がってくる。どうしたものかと思案した。最悪,家の外で朝まで野宿かとあきらめて自分の宿に戻ろうとした矢先,玄関のドアが開いて,ごみをもった人が出てきた。よかった!! 助かった!! 慌てて大声で呼んで近寄ると,けげんな顔をされた。これこれしかじか,とにかく一晩家に入れてとお願いする。外の私の悲痛な状況など,中の連中はまったく知る由もない。本当に,偶然,たまたまごみを捨てに外に出てきたのだった。天の助けだ。ベッドルームがいくつもある家だから,泊めてもらうのに問題はなかった。翌朝早く管理棟に行きスペアキーをもらって家に帰った。北国の家は完全暖房であると同時に,完全防音であることも思い知った。以後,心してオートロックのドアには気をつけている。不注意は時に命を脅かすことにもなりかねないことも学んだ。
Point of View
アートセンターの空間はラビリンスのように複雑だ。ホログラムは天井から直接下げるのだが,花崗岩の硬さはコンクリ-トの比ではなく,フォークリフトに乗って天井にアンカーを打ち込む作業は,まるで土木工事さながらの様子だ。もちろん私は下から指示を出すだけであったが・・・。ホログラムのインスタレーション(図3(a)(b))のほか,光のオブジェを制作した。薄いアラミドペーパーで造られた直径1 mの長い円筒の中に,明るさがゆっくり変化する多数の電球を入れ発光させて,岩盤のトンネルの中を縫うように置いた。流れる光の川をイメージしたインスタレーションである(図4)。3Dの音とマルチスピーカーによる,移動する音の演出も行った。実世界から採取した音源を加工し,水や風が地下空間を通り抜け自然を連想させる音作りを試みた。
夏の3か月間開催される「Point of View」と題されたこの展覧会は,地元のほか,イギリス,フランス,アメリカ,カナダなどからアーティストが参加し,それぞれの「部屋」にあわせたインスタレーションを制作展示した。観念的な作品からキネティク,ライトアートまでかなりラディカルな作品群が並んだ。アートセンターの主要な施設は地下だが,地上部分も森に溶け込むようにひそやかにたたずむ平屋の展示室がある。この年の企画展はピカソの大回顧展が開かれていた。展示準備は順調に終わり,5月の半ば,オープニングの1週間前にはチームのメンバーは皆日本に帰国し,私はモントリオールの展覧会に参加のためカナダに渡った。すでに日本から輸送済みの作品を設営し,とんぼ返りでオープニングを控えたプンカハリューに戻った。大西洋間の移動は日本から行くよりも時差が少なく身体にはかなり優しい。
都会から遠く離れた田舎の村のオープニングイベントに,はたして何人の人が来てくれるだろうかと私は要らぬ心配をしていた。ところが,いざ当日になると,驚いたことに,地下スペースはどこから人がわいてきたかと目を疑うばかりの大勢の人々でギャラリーもレストランもカフェも一杯になった。私も忙しく作品の前で人々の接待をしていたが,ふと視線を感じた方を振り向くと,そこには南国スペインの旧知のホロ仲間2人が立っているではないか。そう言えば,オープニングの招待状をセンターから送ってくれるよう,ヨーロッパに住む知人たちの住所を教えたことを思い出した。しかし,まさかこんな辺鄙なところまで来てくれるなんて想像もしなかったので,本当に驚きうれしかった。話を聞くと,届いた招待状は誰から送られてきたがよくわからなかったが,中にSetsukoの名前をみつけ,ホロ作品が展示されるのだろうと軽く考え,フットワークの軽い彼らはキャンピングカーで大陸を縦断し出かけてきたという。ところが,目的地のプンカハリューにたどり着いたまでは良かったが,森と湖の景色ばかりでそれらしい建物は全然見当たらない。はるばる来たもののとんでもない間違いをしてしまったかと後悔がよぎったとき,アートセンターの建物を発見,地下に降りてみると,ひしめく大勢の人々でにぎわう光景が飛び込んできて,予想もしない別世界が広がっていて呆然となったという。作品の前で人々に囲まれる私を見つけ,いつ声をかけようかと迷っていたらしい。視線とは不思議なもので,大勢の中でも気づくものだ。その晩は広い私のコテージに2人は泊まり楽しい時間を過ごした。オープニングにいた人たちのほとんどはヘルシンキからの招待者で,大手スポンサーのFinnair は飛行機に招待客を乗せ,バスも数台やってきて,彼らは泊まることなく,その晩皆ヘルシンキに帰っていった。
フィンランド滞在は不思議体験の連続であった。
大深度地下空間・マーブルホールとスーパーカミオカンデ
フィンランドのプロジェクトからさかのぼる数年前,私は偶然面白い研究プロジェクトに参加する機会を得た。ロックメカニクスの学者である櫻井春輔氏(神戸大学名誉教授)の提唱により,付加価値を持った新しい地下空間利用の可能性を探る研究プロジェクトが複数発足し,その1つに誘われたのである。図5の(a)と(b)は,1993年に行われたホログラムを取り入れた光と音のイベント実験で,場所は岩手県の釜石鉱山の地表から300 m地下に降りた白色石灰の採掘跡の空間である。炭坑ではないので引火性のあるガスが発生する心配もなく,美しい大理石の“宮殿”(マーブルホール)といった風情である。その後,フィンランドに地下空間のアートセンターがあることを知り,そこの展覧会に招待されることになった時は,研究プロジェクトの延長として技術と予算の両面からサポートを受けることができた。
またスーパーカミオカンデは,富山県の神岡鉱山山頂から1000 m下に掘られた,直径約40 m,高さ50 m以上の地下大空間の実験装置である。1994年にその空洞の開削が完了した時,完成祝いの式典のアトラクションとして動的な光の色と音の演出(図6)を手がけた。地下大空間は音も光も完全に遮断が可能な,実に不思議な空間であり,実験装置の完成の暁にはここは純水で満たされ,永遠に人の目に触れる機会はない。後に,この施設は日本に2つのノーベル賞をもたらした空間であった。
一連の地下空間にまつわる出来事は,どれも非常に印象に残る体験であった。
(OplusE 2019年1・2月号(第465号)掲載。執筆:石井勢津子氏。
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