私の発言 宮本 健郎氏 日本の核融合研究にその初期の頃から携わってきた者としては,ITER計画が実現し,その目標が次世代の人たちによって実証されんことを切に願っております。
東京大学名誉教授 宮本 健郎
■日本光学へ入社
1955年に東京大学理学部物理学科を卒業し,日本光学(現ニコン)へ入社しました。約9年間在籍した日本光学では,最初光学設計に携わりました。初期の仕事で印象に残っているものにオーロラのスペクトログラフがあります。当時,日本が初めて取組んだ南極観測で使用する,視野180° 明るさF1.2のオーロラ観測用スペクトログラフの設計をしました。このスペクトログラフは,魚眼レンズとシュミットカメラを組み合わせた構成で,既にお手本がありましたが,非常に面白い仕事を経験しました。
また,この頃新しくフーリエ光学が登場し,同手法を用い空間的な周波数特性でレンズ評価をするという研究が当時盛んに行われていました。フーリエ光学の方法を使うと,それまではわかりにくかった何光学と波動光学の関係がきれいに解析できるため,この論文をアメリカ光学学会の学会誌に発表したところ,著名な学者を含む数10人の研究者から論文のリプリント(別刷)の請求があったのです。当時はまだ,現在のようにコピー機が普及していなかったので,手許におきたい論文はその著者にリプリントを請求するのが慣わしだったのです。この論文により,世界に広がる学会のネットワークの存在を初めて認識しました。情報を世界に発信することがいかに重要であるかがわかりました。その当時は,ただ関心をもって貰えた喜びを覚えただけでしたが,後から考えると,これが私の人生を変えるきっかけとなったような気がします。
■ロチェスター大学へ留学
そのような世界があることがわかると,やはり海外の研究所ではどのようなことをやっているのか興味がわいてきます。そこで,ロチェスター大学光学研究所所長であったR. E. ホプキンス教授宛に,直接留学願いを出したのです。怖いもの知らずだったのでしょう。ホプキンス教授は,フーリエ光学に関心をもたれていたこともあり,アシスタントシップによる留学を認めていただき,日本光学を約2年間休職してロチェスター大学へ1959年に留学しました。
留学中は,さまざまなカルチャーショックを受けましたが,特に大きかったのは,当時のアメリカと日本の生活水準の差でした。例えば,当時日本最初の阪神高速道路は,まだ建設中でしたし,マイカーなどは高嶺の花でした。ところがアメリカでは,高速道路網は整備され,車も一家に一台は当たり前になっていました。コンピューターにしても,日本では,まだリレー式のものを使うか使わないか議論されていたのに対し,アメリカではすでにIBM製の電子計算機が企業や大学に導入されていました。
また,大学における雇用形態が日本とまったく異なっていました。ロチェスター大学の若いスタッフはみな任期制で,当時日本の企業では当たり前だった終身雇用でなかったことも1つの驚きでした。当時日本では,就職担当教授から「よほどなことがない限りは職場を変えるようなことはするな」と諭されたくらいですから,日本とアメリカの「社会の在り方」の違いを感じさせられました。
ロチェスター大学では,英国から新しく赴任してこられた “Principles of Optics" の著者の一人として著名な,E. Wolf教授のもとで「周辺回折波理論の一般化」について研究しました。この留学約2年間は,若かったこともあり,何事も非常に印象が強く,学問の面白さを再認識しました。
当時のロチェスター大学物理系大学院には,思いのほか多くの日本人留学生がいたので,そのわけを聞いたところ,当時この大学の素粒子分野の有力教授が,以前にある日本人留学生を受け入れたところ,その優秀さに感心し,それ以来多くの日本人留学生を受け入れるようになったということでした。
その話を聞いたときは「そうか」としか思いませんでしたが,それからおよそ20年後に私が東大の物理学教室に赴任した時に,2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊教授がロチェスター大学に留学しておられたことを伺い,このことを思いだし納得しました。
■日本光学に戻って
1961年に日本光学に復職してからの仕事は,沖電気のコンピュータ- OKITAC5090の導入にともなう計算機による光学系の自動収差補正法の開発,位相フレネルレンズの考案,新形式のマイクロ複写レンズの提案などでした。
マイクロ複写に関しては,当時東大物理学教室の小穴純先生が切手大の大きさのなかに2~300ページの本を複写する究極のマイクロ複写の研究をされていて,そのレンズの設計を日本光学の故脇本善司氏が担当しておられました。私はその話を聞き,視野を広くした顕微鏡レンズを使うことを脇本さんに提案しました。顕微鏡の球面収差,コマ収差はほとんど "0" であるため,例えば5倍の大きさに拡大すると,装置は大きくなりますが,視野の面積は25倍になります。それに加え,光源に単色光を使えば,色収差補正の制約が緩和されて光学ガラスの選択が広がり,像面湾曲が補正できためさらに視野を広げることができるのです。脇本さんからは,いい提案だと褒めてもらいました。なお,小穴先生のマイクロ複写のご業績は,半導体露光装置の発展に大きく貢献されたということをずっと後になって知りました。
■プラズマ物理・核融合の世界へ
そうこうしているうちに,やがてアカデミックな仕事と会社の仕事の両立が難しくなり,中途半端な姿勢では学問的なことはできないと気付き,大学に戻って学問をやり直そうと決心しました。このような考え方ができたのは,留学により終身雇用制の呪縛からのがれられていたからかも知れません。
しかしながら,当時の大学で人材を外部から公募することは希有なことでした。そのような状況のなか,1960年頃からプラズマ物理,核融合の研究分野の重要性が日本でも認識され始め,1961年名古屋大学に全国共同利用研究所としてプラズマ研究所が設置され,伏見康治教授を所長に迎え,人材の募集が行われたのです。このような状況に遭遇できたのは大変幸運なことでした。偶然この話を聞き,プラズマ物理や核融合が大変興味深い分野であることを知り,プラズマ研究所の募集に応募し1963年の秋に内定をいただきました。
日本光学を退社する際,直接の上司へ申し出る前に,脇本さんに恐る恐る相談したところ,ちょっと考えられてから「君が辞めても会社は何ともないよ。会社への説得は引き受けてやる」とおっしゃって下さいました。いろいろとお世話になった脇本さんは,その後取締役になられ,日本光学を辞された後しばらくして亡くなられたのですが,残念でなりません。
ブラズマ研究所では最初線形プラズマの実験に従事し,ブラズマの各種光学計測を担当しました。ドップラー幅によるイオン温度,レーザー散乱による電子温度,レーザー千渉計による電子密度計測などです。当時この研究所では若い世代の研究者が各分野(原子核・加速器,放電工学,電気工学など)から集まってきて,活気はあるが競争の激しい雰囲気があり,生き残りをかけて,ブラズマ物理の勉強を必死になってやりました。
核融合研究はアメリカ,旧ソ連,イギリスなどの戦勝国が戦後すぐに大型装置を建設し始め,本格的な研究を秘密裏に行っていましたが,当初の楽観的な期待とは裏腹に,異常損失のため高温のプラズマを閉じ込めることができませんでした。そこで各国は,研究成果を公表することで,世界中の研究者の協力によりブラズマの振る舞いを基礎的に研究しようということになったのです。核融合後進国であった日本や西独にとって,追いつく機会を与えられたという点で,考えようによっては幸運なことだったかも知れません。
そのような状況のなか,1968年にノボシビルスクで開催された第3回国際原子力機関(IAEA)主催のプラズマ物理,核融合研究に関する国際会議で,旧ソ連のクルチャトフ原子力研究所のL.A. アルモヴィッチが率いる研究グループが,トカマク装置T-3により電子温度1000万度Kの高温プラズマを数ミリ秒間閉じ込めるという画期的な報告をしたのです。当時は冷戦の真っ只中で東西の対立が激しい時期でしたが,アルモヴィッチは英国の求めに応じて,英国チームがレーザー散乱装置をクルチャトフ原子力研究所に持ち込むことを認め,電子温度を計測したのです。これにより,この実験報告が事実であると確認されるやいなや,世界の閉じ込め研究の主流は環状(トーラス)プラズマへと移っていきました。
この流れは日本においても同様で,プラズマ研でも研究体制の再編を始め,1969年に外部導体系トーラスによる研究計画の公募が行われました。研究計画の立案にあたっては,膨大な量の磁場計算が必要でしたが,日本光学時代に身につけたプログラミングの経験が役立ち,「JIPP-1 ステラレーター計画」を提案することができ,幸運にも採用されました。この計画は,1970年3月に装置が完成し(図1),ドリフト波によるプラズマの揺動損失や対流損失などを観測し,1971年の第4回IAEAの国際会議で解析結果を報告することができました。
1974年には,東京で第5回のIAEA国際会議が開催され,日本もようやく核融合の分野で先進国の仲間入りができるようになりました。また,同年にプラズマ研の主力装置として,トカマクとステラレーターのハイブリッド型装置JIPP-T2計画が認められ(図2),多くの研究者の協力により,大きな成果を上げることができました。
■大学に移って
1979年,東大の理学部物理学教室からプラズマ物理の教授ポストの話があり,若干躊躇した後決心して,プラズマ研を後にしました。よく言われることですが,学部の先生は中小企業の社長のようなもので,予算の獲得,業績のPR,優秀な大学院生のリクルートや指導,就職の世話といったようなことをすべて自分でやらなければなりません。これまで私は,そのような経験はあまり積んでいませんでしたので,それなりに苦労や戸惑いもありましたが,研究仲間や多くの優れた大学院生に支えられて何とか切り抜けることができました。
1983年には,逆転磁場ピンチREPUTE-1計画を,当時工学部原子力工学科の井上信幸教授と共同で提案し,実験を進めることができました(図3)。REPUTE-1計画は大成果を上げたとは必ずしも思っておりませんが,多くの大学院生がこの計画により論文をまとめ,現在それぞれの研究所や大学で活躍しているのを今になってみると,これで良かったのだと思っています。
何年か前に,センチメンタルジャーニーではないのですが,東山にある名古屋大学のプラズマ研があった場所に行ってみましたら,建物は残っていましたが,装置などの施設は跡形もありませんでした。何十億円もお金をかけて造った装置は,でき上がって運転していたときは非常に貴重ですが,役割が終わってしまうと,後に残るのは装置ではなく,業績と人ですから,人を育てるということは非常に重要なことだと思います。
1992年に東大を定年退官し,その年から2000年までは成蹊大学工学部で教鞭を執っていました。私立大学では,学生の教育研究以上に重要になります。成蹊大では解析力学や量子エレクトロニクス,応用光学,プラズマ工学などの授業を担当しました。
量子エレクトロニクスの講義をしていた時のことですが,レンズのFナンバーの話がでたときに,Fナンバーを聞いたことがないという学生が大勢いたので,意外に思い,高校の教科書を調べてみると,Fナンバーどころか,結像方程式も載っていなかったのです。また,学部の授業科目を見ると,光学はレーザーや電磁気学のなかに組み込まれていることが多いことも分かりました。そのことが動機となり,光学の有用な基礎知識を,学生にもっと知ってもらい,それが多くの分野に繋がっていることを伝えたいと思い「光学入門」という教科書を岩波書店から出版しました。
■ ITER計画
日本原子力研究所の那珂研究所では1985年頃からJT60大型トカマクの実験が始まりました。このJT60は世界3大トカマクの1つで(他は,プリンストンプラズマ物理研究所のTFTR,EC共同計画JET),現在非常に優れた研究成果を上げています。
大型のトカマク研究に実績のある日本,EC,ロシア,アメリカの4カ国が共同して「国際熱核融合実験炉ITER(International Thermonuclear Experimental Reactor)」を設計するプロジェクトが1988年に立ち上がりました。
ITERの設計は,概念設計,工学設計フェーズ1,フェーズIIと段階を経て,2001年に完了しました。私は,1999年にITER物理専門家会議の委員になりました。この会議はITERの設計の基礎となるデータベースを評価整理し,種々の比例則などプラズマ物理の立場からITER設計チームを支援する作業会議で,ITER最終案を決める面白い時期に参加できました。
ITERの最終計画は,4カ国の政府機関で承認され,実験炉の建設予定地の候補にECフランスのキャダラッシュ,日本の六ヶ所村が上がりました。順調に行けば2002年には建設地が決まる予定でしたが,今だ建設地の決定は遅れに遅れており,非常に憂慮すべき状態に思われます。
40年前プラズマ物理核融合の分野に飛び込んだときには,臨界条件を満たすプラズマを実現することは遙か彼方の夢物語のようであり,たどり着ける見通しはまったくありませんでした。それがようやく現実的な核融合実験炉ITER計画の承認までこぎ着けたのです。日本の核融合研究に,その初期の頃から携わってきた者としては,隔世の感があります。ITER計画が実現し,その目標が次世代の人達によって実証されんことを切に願っております。(文責 Y.F.)
(OplusE 2004年11月号(第300号)掲載。肩書などは掲載当時の情報です)
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