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ホログラフィーアートは世界をめぐる 第16回 台湾交流録 part 2 予期せぬ展開

HODIC in Taiwan


 海外版HODIC(ホログラフィック・ディスプレイ研究会)の例会は,アジアの研究者との交流を目的として立ち上げられており,その第2回が,台湾,新竹のITRI(台湾・工業技術研究院)で2005年12月に開催され,私は参加した。前回の訪問から8年後のことである。新竹は,日本で例えればつくば学園都市のような土地柄で,大学などの教育機関の他,台湾のシリコンバレーとも言われるサイエンスパークのエリアには,研究施設や企業などが集まっている。そのような一角で研究会は開催された。日本からの参加者は交通宿泊費が自前,会議関連についてはすべて台湾サイドの運営という条件であった。1日の講演会は日本と台湾から半々の発表者で構成され,多くの受講者が集まっていた。運営機関から予想される通り,私以外はすべてが技術中心の演題であった。そのためか,プログラムの構成では,私が最終の講演となっていた。さて,出番となり会場を見渡すとそれまで多くの人で埋まっていた座席はいつの間にかガランとしてまばらに人が残っているだけになっていた。「ホログラフィーアートの建築空間への応用」と題して,それまでの私の作品実例の紹介を,ビデオやスライドなどの視覚媒体を中心に発表した。どれほど理解されたかまったく不明で,手応えもなかった。
 講演会は無事終了し,夜は台湾流の美味しいおもてなしの晩餐会が催された(図1(a), (b))。ITRIの例会は,HODICの国際担当の岩田藤郎氏(凸版印刷㈱中央研究所)が中心になって企画され計画が進められたのだが,岩田氏から夕食の席でこんなエピソードを聞いた。プログラムの件で,台湾とのやり取りの時,日本からの講演者と演題を知らせたところ,先方から「アート関連の石井の発表は要らない」と言ってきたという。そこで岩田氏は「HODICはHolographic Display Artists and Engineers Clubの略で,アーティストを除くことはできない」と説得し,私の発表を何とか組み込んでもらうのに苦労したということだった。扱いに困り,プログラムの構成に苦慮しての順番だったのであろうが,どうも付け足し感が否めない。ホログラフィーアートは,おそらくITRI界隈ではまったく馴染みのない分野であったのだろう。

 台湾訪問中のメインイベントの1つは,連日催される台湾流晩餐会である。講演会に同行された辻内先生を訪ねて,辻内研の元留学生のDr. Der-Chin Su(国立交通大学教授,前号にも触れた)や,彼の恩師であり辻内先生とは旧知のDr. Yi-Shun Gou(国立交通大学教授)らが,講演会には参加していなかったが,食事会には出席し,共に旧交を温めていた(図2)。その席でGou先生は「いよいよ交通大学を退官だが,師範大学(国立台湾師範大学)の学長選挙に立候補しようと考えている」というようなことを話していた。私は講演の資料,ビデオやホログラムの作品資料を,せっかくの機会なので後で見てもらおうとDr. Suに渡した。それまでの私のアート活動を知ってもらう機会がなかったので,良い機会と思えたからである。宿泊はサイエンスパーク内のドミトリーのような施設で,新竹では自由なショッピングも夜市の散歩もなく,三度目の短い冬の台湾訪問は終わった。

後日談の始まり―展覧会


 翌年の2006年6月,辻内先生からメールが届いた。国立台湾師範大学から辻内先生に講演の招待状が届き,その中に石井が指名されていてホログラムを一緒に展示してほしいという内容だというのだ。前年暮れ,新竹で,師範大学の学長選に立候補を表明していたGou先生は学長に就任され, 早々にホログラフィーの講演会を企画されたようだ。そこで,辻内先生に講演依頼の招待状が届いたのだが,私がDr. Suに手渡したビデオなどのホログラム作品の資料を目にして,実物のホログラム作品もぜひ一緒に展示したいということになったらしいのである。たまたま手渡した作品の資料から,そのような展開が開けようとは夢にも思わなかったので驚いた。
 大変ありがたい申し出だったが,すぐに「はい」と答えられなかった。もしかして,先方は,手荷物で運べる程度のホログラムを想像しているのかもしれない。講演発表のサンプルとしてならそれでも良いのだが,アートの展示としては十分ではない。初めてホログラフィーアートを見てもらう機会としては,できるだけ良い状態を準備したく,中途半端なイメージを与えることはできるだけ避けたいと常日頃考えていた。もし展示するなら,事前の準備も含め展覧会として計画してもらうことが理想だが,それは可能だろうかと言った疑問を辻内先生に打ち明けたところ,台湾サイドにその旨を率直に相談してみてはどうかということになった。
 具体的なやり取りについては,学長の命により,師範大・光電研究所の助教授,Dr. Hsieh女史が窓口となった。展覧会の準備には,まず展示会場の場所の有無と広さ,出品可能な作品の量,それらの作品の輸送手段と費用の検討などを行って初めて,実現可能かどうか検討が可能となる。ところが,先方は展覧会の準備はもとより,作品の海外輸送についてもまったく初めての様子で,どこからスタートしたらよいか,それも,英文メールのやり取りだけでのコミュニケーションに,私は途方に暮れてしまった。そんな折,先方から「6月末にイギリスで会えますね。そこで直接話しましょう」と連絡が入った! この6月は,イギリスのノースウエールズで,第7回ISDH(International Symposium on Display Holography)が開催される。私は,このシンポジウムには第1回から皆勤で,それも口頭発表することになっていた(ISDHについては,後述予定である)。このシンポジウムに参加予定の彼女はプログラムで私の名前を発見し,連絡してきたのであった。直接会うことができれば,話は早い。出品可能な作品をまとめ,問題点が何かを正しく伝えられれば,半分解決したようなものだ。このラッキーなタイミングにホッと安堵したのであった。このシンポジウムには台湾から彼女の他,交通大学・光電研究所から,さらに崑山科技大学の視覚伝達設計系からも参加していた。1週間のシンポジウムのあいまに,具体的に問題点を話し合うことができたのは幸いであった。ちょうど,展覧会の準備などには慣れているデザイン系の崑山科技大学のDr Huang女史にも間に入ってもらったこともラッキーであった。ここでやっと展覧会実現に向けての第一歩を歩みだすことができた。その後,紆余曲折の経過をたどりながらも,結局,International Workshop on Holographyと並行して,かなり大掛かりの石井のホログラフィーの個展「Spinning thread of light-Holography Installation」を,この年の11月24日から29日まで師範大学のアートギャラリースペースで実現することになった(図3, 図4)。

 台北の市の中心に構える師範大学(図5)は,理工系,人文系の他,デザイン・芸術系も網羅された総合大学である。ここで学ぶ学生たちに,総合大学の利点を生かし,理系,文系,芸術系の縦割りの壁を取り外しクロスオーバーで学べる機会を与えるという新学長の理念に,ホログラフィー技術とアートへの応用は科学と芸術の融合のシンボルとしてぴったりの素材であったようだ。
 ところが,すべての準備も順調に進み,あとは渡航するだけというホログラフィーワークショップと展覧会が直前に迫った時,辻内先生が怪我をされて入院という事態が発生した。残念ながら,辻内先生の講演のご出席は土壇場でキャンセルとなってしまった。すでに展覧会の準備はほぼ完了していたので,結局私一人で出かけることとなった

まず初日,学長室にGou先生を訪問し挨拶をした。辻内先生が来られなかったことを大変残念がり,昔の,辻内先生と出会った当時の写真を用意して,私に見せてくれた(図6)。学長との会見の後,空輸された作品の開梱作業(図7)に立ち合い,無事に到着したのを確認した後,設営に取り掛かった。作業には電気などのプロの技術者の他,学生たちが実によく働いてくれた。展示のための台座やパネルの製作,照明器具の取り付け位置の工夫など,ホログラムの展示には必ずつきものの煩雑な作業も,何とかクリアーして,無事予定通りのオープニングを迎えることができた。展覧会開催案内の広報活動としては大学の塀の外壁に横断幕が掲げられ(図8),キャンパス内の掲示板数か所にはポスターが貼られた。また,リーフレットが印刷され,作家資料とともに受付デスクに用意され,来場者に渡された。オープニングに先立ってプレスカンファレンス(図9)が開かれたのには,実は少し驚いた。地元メディア数社が来ていた。
 オープン初日には,Dr. Suと彼の同僚の先生たちも新竹から,そして,ノースウエールズで出会った崑山科技大学のDr. Huangも,高雄からかけつけてくれた。学内や学外から多くの人が訪れて,とにかく皆珍しそうに鑑賞していた。いつもは展覧会で,私はアートよりも技術的質問ばかりされ,フラストレーションを覚えるのだが,今回は交通大学や師範大学のホログラフィーの研究者たちが会場に訪ねてくれたおかげで,あちこちで,作品を前にホログラフィーについてのミニ説明会が始まり,とても助かった。学内のデザインや人文系の先生をはじめ,多くの技術系ではない人たちも会場を訪れ,私に熱心に話しかけてきた(図10)。特に,画家でもある女性の副学長は,新しい表現メディアであるホログラフィーに大いに興味をもったようであった。

多国籍の作品たち


 図11から図13は会場および出品作品のドキュメントである。出品作品を決めるうえで考慮したことは,(1)タイプによって特徴が異なるので,多様なタイプを含める。(2)この会場に展示可能なこと。天井から下げる作品は避けた。(3)インスタレーション作品を加える。(4)空輸のため重量やボリュームを抑えた。図12(a)は大型の壁掛けインスタレーション「視感温度α」の一部分だけを展示した。ホログラム面の前後に再生される毛糸のリアルな三次元の画像は,視覚だけで柔らかな感触を想起させる。このパルスマスターの銀塩反射型ホログラム(30 cm×40 cm)は,1987年に10か月間ほどパリに滞在していた時,ストックホルムのラボで制作したものだ。図15のポートレートも同じストックホルムのラボで制作されたが,マスターホログラムは1994年にシカゴで撮影されたものだ。(b)は植物のシルエットのDCG反射型である。床に置かれた水中の鏡で反射した光で像を再生する。天井から水滴を落としてできる水面の波紋が,ホログラムと壁面に現れる水のインスタレーションである。(c)はレインボウマルチカラーのシャドウグラム(30 cm×40 cmガラス乾板),1985年ニューヨークのMOH(Museum of Holography)のA.I.R(Artist in Residence)(本シリーズ第4回に掲載)で制作した1枚である。(d)も同様の透過型で,絵具を光の色,絵筆をホログラフィー技術,キャンバスを空間に置き換えて描いた作品。バーリントン(アメリカ,VT)のラボで制作した。フィルムホログラムをガラスにラミネートしてある。図13の3点はDCGホログラムの背面に模様を描いたパネルや布を重ねている。画像の透明な部分からは背後の画像が透けて見え,実体のパネルや布の面と,その奥に見えるホログラムの虚像とのオーバーラップが,観る人に不思議な視覚体験を演出する。(a)の被写体は牧草,(b)と(c)は筆のタッチのシャドウグラムである。また,(b)は単色ではなくゴールドとブルーの2枚のホログラムをはり合わせて2色のホログラムに仕上げている。これらのDCG作品は,ローガン(アメリカ,ユタ州,ソルトレイクシティーから100数十キロの都市)のラボで制作した。初期のDCGは国内(凸版印刷㈱,ホロメディア㈱)で制作できたが,1990年代以降は国内では不可能となり,以降DCGの制作の場はアメリカのローガンに移った。
 オープンした展覧会の後に,この年にはHODICの海外例会がタイで開催されることになっていたため,私は台北からバンコクに向かった。ハードスケジュールがたたったのか,風邪をひき,バンコクでは美味しく辛いタイ料理がのどを通らず,残念な思いをした。その年の暮れには出品したすべての作品も無事台北から戻り,たくさんのことがあった2006年も無事暮れた。

連なり


 翌2007年3月,怪我から回復された辻内先生は,台湾の師範大学から改めて講演を招待され,石井も同行させていただくことになった。この時の訪問では,台湾各地の観光名所を案内していただき,いろいろな風景を堪能した。奇岩で有名な野地地質公園には,交通大学,師範大学のゆかりの教授陣たちが全員集合して,皆一緒に観光旅行に同行してくれた(図16)。阿里山にも出かける機会を得た。森林鉄道終点駅までは車で登り,檜の森の中を少し歩いてみたのだが,その日はあいにくの小雨と霧で,周囲はまるでかの有名な長谷川等伯の松林図屏風のような景色が広がっているだけであった(図17)。  高雄にも出かけ,崑山科技大学のDr. Huangをたずね,ホログラフィーラボも見学させてもらった。食事は最も重要なイベントである。皆でランチを楽しんだ後,高雄市の蓮池潭観光も忘れなかった(図18)。  食事を共にし,観光を共にした人々との交流が,この後の台湾との絆をさらに深め広げる新しい展開が待っていようとは,この時はまだ想像だにできなかった。 (part3に続く)

(OplusE 2020年7・8月号(第474号)掲載。執筆:石井勢津子氏。
ご所属などは掲載当時の情報です)


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