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ピーナッツと谷川俊太郎

谷川俊太郎が亡くなった
92歳で穏やかに息を引き取ったという
実はというかなんというか谷川俊太郎の詩はあまり読んだことがなかった
詩集も持っていない
印象に残っているのは日本の詩人で詩だけで喰っていけてるのは谷川俊太郎だけだという誰かの言葉だった
たぶん本当だと思う
作詞家で喰ってる人はいるが詩人と作詞家は微妙に異なるし別カテゴリーの存在と考えた方がいいだろう
ちなみにこれは本当かどうかわからないがドイツ語版のウィキペディアの記事によるとフランスで詩だけで生活が成り立っていた人はポール・ヴァレリーが最後であったという

谷川俊太郎も詩だけ書いていたわけではない
チャールズ・シュルツの漫画『ピーナッツ』の翻訳もしていた
個人的には谷川俊太郎はピーナッツの翻訳者という印象が強かった
ただ当人はピーナッツの翻訳は嫌だったらしい
最もよく読んでいたのは1970年代の初め頃だったと思う
なのでウッドストックにまだ名前がなくヌケサクと呼ばれていたりペパーミントパティがスヌーピーを犬ではなく人間の子どもだと思っていた時代から読んでいたことになる
考えてみりゃ50年前だ
恐ろしいことだ
あれから50年もたったのだ
ただシュルツは50年ピーナッツをほぼ休まず描き続けたし谷川俊太郎も50年、断続的にピーナッツを訳し続けたのだった

50年を経てもあのキャラクターたちは心の中に生き続けていた
それくらい印象的だった
ついこのあいだもライナスの毛布に対する執着を多くの人が知らなければ安心毛布という概念を人に伝えるのは難しいだろうといったことについて自転車を漕ぎながら考えていた
何しろライナスの毛布といえば伝わるというのは凄いことではないか?

精神分析というものもピーナッツで知った
ルーシーが5セントでやっていた
ルーシーのアドバイスは実にテキトーであった
だからそれをよく憶えておけばサイコセラピーやカウンセリングに過度の期待を持たなかったのにと今となっては思う
つまりあれは心理療法というものへの揶揄だったのだろう
そして心理療法家に心理療法など絶対にやってはいけないタイプの人間が結構いることまで指摘していたような気さえする
そしてそういう人間に限って心理療法を“やりたがる”ことまで暗示していたのではなかろうか?

ルーシーにしてもチャーリーブラウンにしてもペパーミントパティにしても充たされない愛を悩んでいた
彼ら彼女らの愛は成就する可能性が極めて低い
ルーシーはシュローダーからペパーミントパティはチャーリーブラウンから愛されていると強引に思い込むことはできるかも知れない
しかしチャーリーブラウンが赤毛の女の子から愛されていると思い込むことはまず不可能だろう
そうなってしまってはそれはもう狂気の領域に入ってしまうし、仮に赤毛の女の子が意志疎通が可能な存在になってしまってもチャーリーブラウンはおかしなことになるだろう

赤毛の女の子とは村上春樹の100パーセントの女の子のことだし、かつて村上は自分の書いたものはピーナッツのようなものだといっていたのだった
実際1980年代に村上春樹を読んだとき強い既視感があった
これってあれじゃないか…
スヌーピーの独白そっくりじゃないか
そんなわけでシュルツ、谷川俊太郎、村上春樹は緩く繋がっているような気がしてならない
僕が谷川俊太郎訳のピーナッツを読んだのは思春期のほんの数年間だけであった
今歳老いた自分がそれを読み返すことに果たして意味があるのかどうかわからない
確かスヌーピーも思い出は思い出のままにしておけといっていたような気がする














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