極端な明るさ 極端な不幸
空気階段のもぐらがフィリピンを旅した話をラジオで喋っていた
話自体は非常に面白かったので三回は聴いたと思う
もぐらはフィリピンに着いて歌舞伎町で働いていた時代の知人と出会いスラムを案内してもらう
もぐらにも知人にもダークツーリズムなんて概念はない
スラムというのは基本的に悲惨だ
貧困、暴力、犯罪、病気の蔓延、性搾取、児童労働
しかしそこに生きる人たちは底抜けに明るかったという
こういう話はよく聞く
以前、読んだ本でもガザの子どもたちの明るさについて書かれていた
フィリピンにはまだスモーキーマウンテンがあるのだという
Wikipediaの記載だと既に撤去さされたとあるがまだあるのだ
スモーキーマウンテンは確か30年くらい前のテレビのドキュメンタリーで見た気がする
スモーキーマウンテンで子どもたちは使えそうなもの、食べられそうなものを拾って日々を過ごしている
悲惨だけど明るい子どもたち
なのでこれもよく聞く話だが子どもたちを日本社会の基準で考えて“かわいそう”だと思うのは違うのでは?という話になる
そのように考えるのは傲慢ではないのか?みたいな
しかし、しかしだ
ただそうなるとじゃあフィリピン行って貧しい子どもたちを救ってこいよって話にもなる
養子にして育てろよとか
なんでいきなりそういう話になるんだろうな
ガザ行って抗議しろよとか
ミャンマー行けよとか
日本社会はそういう言説空間しかなくなってしまったのだ
というか昔からそんなだった
成瀬巳喜男が林芙美子の放浪記を映画にした
高峰秀子演じる林芙美子が馬鹿野郎てめぇで稼ぎやがれといって慈善団体を追っ払うシーンがある
そういう場面が放浪記にあるのかどうかは知らない
ただ林芙美子は慈善という概念が理解できなかったのだと思う
林芙美子が庶民に寄り添ったというのは勿論嘘だ
庶民を蹴落として作家様になった人物といった方が正しい
ただ往々にして庶民はそいういった人物を好むのだ
明るく生きる以外に生きようがない世界があるのかもしれない
日本でいえば敗戦直後、闇市焼け跡の明るさみたいな
ラテン系という漠然とした言葉がある
大阪も西へ行くとラテン系だという
ほぼ無意味な言葉だが要は底抜けに明るいといった意味があるのだと思う
祭りと聞くと血が騒いでしょうがないとか
僕はラテン系≒強固な信仰だと思っている
イスラムにしろヒンズーにしろカトリックにしろ信仰が強い社会は人が明るい
笑顔が多い
人権状況は最惡である
レイプされた女性の方がクレーンに吊るされて処刑されるような社会である
でも人は明るい
北アメリカのコーカソイドのプロテスタントのニカっとした笑顔
あの笑顔は神に見せるための顔なのだ
本当に楽しくて笑ってるわけではない
トランプを狙った青年も一応、笑ってはいた
天理教の陽気ぐらしだって本当に陽気なわけがない
ただすべてを神に委ねてしまえば人は明るくもなるのではないか?
神を愛し神に大事にしてもらえると心の底から信じられれば
ただ幸福だったり明るかったりそれって無条件にいいことなのだろうか?
推し活で母の晩年は光り輝いてましたとか
しかし光り輝いてればいいのだろうか?
勿論なんの救いのない人生を生きて絶望の果てに死ぬのがいいわけでもない
ただ過度の明るさの裏にはとんでもない闇が潜んでるような気がしてならないのである