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カップヌードルとヘーゲル

それは もっともこころ優しいしるし
口づけは はるかに深いことばだから
そのうちで 魂はたがいに触れあい
私の心は君の心に流れこむ

ヘーゲルが二十歳年下のマリーに贈った詩

任意のカップヌードルを一つ用意します。
この場合における任意のカップヌードルとは個人が御主人様や啓蒙的な君主の意向や市民社会の圧力に負けることなく自由に選んだカップヌードルのことを指します。
しょうゆでもカレーでもシーフードでもかまいません。
任意の卓袱台の上にカップヌードルを載せます。
そして正座してからシリアスな顔をしてカップヌードルを睨みつけます。
プロイセン式に睨みつけます。
これをカップヌードルに対するプロイセン的睨みつけといいます。
容器の印刷を総て読み込みます。
意外と蛋白質も含まれていることに気づきます。
読んでいる間、カップヌードルが“運動”を起こすんじゃないかと少しヒヤヒヤします。
いや、少し、既にカップヌードルは運動を起こしています。
カップヌードルに欲望の視線を向けた瞬間から精神の運動が起こっています。
任意のお湯を用意します。
水道水で結構です。
ボトル入のミネラルウォーターは水が惡い欧州のもので日本ではわざわざそんなものを買う必要がない。
シンプルな事実を認識します。
ガラス瓶入ならまだしもペットボトル入のミネラルウォーターは環境を破壊します。
ヘーゲルはミネラルウォーターや沸かした水、あるいはビールを飲むべきでした。
プロイセン人はアルコールに強いので仕事中にビールくらい飲んでもビクともしません。
ヘーゲルほどの頭脳の持ち主が汚染された水の危険性を知らなかった筈がないと思うのは一つの謬見です。
実はヘーゲルは結構間抜けだった可能性すらあるのです。
この可能性は棄てることなく保持しておきましょう。
またヘーゲルは結構ケチだったことが知られています。
ヘーゲルは下宿の女将さんを妊娠させますが産まれた子どもの養育費をケチります。
ヘーゲルはケチな野郎でもあったのです。
しかしながらヘーゲルは裕福な家に生まれていないので仕方がなかったということもできるでしょう。
とはいえ遺産もあり子どもの養育費が払えないほど貧窮したわけではないヘーゲルはやはりケチな野郎というべきなのかもしれません。
全的、包括的、綜合的に判断してジャッジは歴史に任せましょう。

カップヌードルのパッケージを素早く剥がします。
モタモタしていてはいけません。
すばやくはがします。
そしておもむろにカップヌードルのふたを開けます。
やっちまったなあと思います。
やっちまったんですから。
もうあとにはひけません。
不可逆的なことをやってしまいました。
歴史が開始されてしまいました。
半分だけふたをあけます。
一体、ハンブンとはなんだろう?
どのあたりがハンブンなのか?
あいまいさに耐えます。
あいまいさに耐えている自分を認識します。
あいまいさに耐えている自分はすばらしい。
少し自分を讃えます。
自分を讃えている姿を他者に見られるのではないか?
少し自分を恥じます。
お湯をそそぎます。
お湯の量を調節することで濃い味にするか薄味にするか決定します。
内側の線に抗ってください。
アナキストになってください。
内側の線に従う必要はないのです。
スープの濃さを決定できる自分を誇ります。
誇り高い自分を感じます。
人が見ています。
少し恥じます。
お湯を注ぎ終えたらふたを任意の方法で閉めます。
わりばし、カップソーサー、文鎮、板切れ、発掘されたばかりの木簡、文庫本、長谷川宏訳の精神現象学、ect.ect
その選択肢の多さに驚嘆してください。
お湯をそそがれたカップヌードルは激しい運動を起こしています。
とりあえず対流が起こっています。
しかし対流は直接見えません。
スチロールの容器にはばまれて対流は見えない化されています。
思考の力をフル活用して対流を“視ます”。
対流を幻視します。
幻視力をきたえあげます。
その力をほめ讃えます。
食欲に支配されてもう人の目も気になりません。
思考の力で対流がはっきり見えたところでできあがりです。
ふたをおおっていた非理性の鈍重な重石をとりのけます。
英雄的にとりのけます。
啓蒙的にとりのけます。
ふたはすぐにすてません。
ふたのうらに書いてある文章を読みます。
文章をよむことで知恵を獲得します。
読みおえてからふたをすてます。
さあ、食べるのか?
食べないのか?
キルケゴールにとっては大問題でしたがヘーゲルにとっては問題はありません。
食べ且つ食べない。
ヘーゲルにとっては同じことなのです。
しかし食べます。
ヘーゲルにも理性をかなぐり捨てて獣性をむき出しにする瞬間があるのです。
下宿の女将さんとことに及んだときもそうでした。
さて口の中いっぱいに宝石箱が大伽藍が知の体系がエンチクロペデーが構築されていきます。
悟性が分析を開始します。
単なる感覚にとどまっていてはならないのです。
うんめぇぇぇぇ。
それで終わっては哲学者失格なのです。
どんなにおいしくてもそれ自体は無なのです。
カップヌードルが人間の中で理性へまで高められて始めてカップヌードルは有になるのですから。

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