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頑張らない人を応援する その効能
頑張ってる人を応援する
これは嫌であった
すっかり応援社会にはなってしまっているのだけど、結局、大政翼賛ノリじゃんというか要は自己愛だろっていう
自己愛自体はいいんだけど、その自己愛を何かに丸投げして安直に充たそうとしている、その性根が嫌だなあという
無限にオススメされる本の紹介が嫌いなのも結局それも“応援”だからだ
どうせ紹介するんだったら自分が書いた本を紹介したらいい
それだったらスジが通ってる
そうじゃなかったら、自己愛を充たすのに他者に依存しているさもしい人でしかないのである
応援社会はさもしい人たちのさもしい社会なのだった
さて、話は変わって頑張らない人を応援できるのだろうか?
あ、その前に頑張るという自意識についてちょっと書いておきたい
前に女優、ファッションモデル、歌手、書評とマルチな活動をしている杏という人が“頑張らないように頑張る”という発言をしていて物凄く嫌な気分になってしまったことがあった
杏は素敵な人である
それでもほんとうに嫌になってしまった
なんだよ
頑張らないように頑張るって
これは誰も非難できない鉄壁の防衛だと思った
もう私は頑張りません、テケトーに生きますならわかる
スジが通ってる
それを頑張らないように頑張るって
もちろん応援社会の害毒にどっぷりの人たちから何も頑張っていないおまえから非難を受けるスジアイはないといわれるだろうことはわかっている
彼らからすると頑張ってない人には人権がないのだ
頑張ってはじめて人として認められるというわけだ
頑張ってないとすべての人間から非難されるような社会、これは嫌である
つまり頑張るというのはエクスキューズなのである
それを最初に示しておかないと頑張らない人の烙印を押されて排除されることになるのである
だから、杏は頑張らないように頑張るといったのではないか?
ストレートにもう私は頑張りませんといいたかったのに
何も頑張ってないのに頑張ってる人に対して何をいうんですか?
あなたは鬼畜ですか?
ヒコクミンですか?
サイコパスですか?
兵隊さんありがとう
兵隊さんのお陰です
兵隊さんが頑張ってくれたから今の日本があるのです
文句があるならあなたが総理大臣になってください
これはとても嫌な社会の見本である
まあとうぜんいろいろあるんだと思う
そりゃそうだ
それが社会というものだ
さて、本題に帰るとじゃあ何故、頑張らない人を応援しないのか?という話である
それは頑張ってない人を応援しても自己愛の代理満足ができないからである
それはそうである
そこには快感や心理的利得がない
無用の用という言葉はある
ただそれだって用だからね
頑張ってない人を応援することは多くの人にとって意味がない
しかしそれをあえてやってみることでちょっと心が軽くなる
これをやってみると何かが消えるのである
付け加えることにアキアキしてる心から何か消える
もうそれで充分ではないか?