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市民オペラに参加するということ 3

オペラをやっていない間に、私は資格を二つ取った。どちらの資格も、ギリギリに勉強しはじめたので、直前に詰め込まなくてはならなかった。だからもしオペラをやっていたら、困難を極めたことだろう、土曜日に毎週練習があって、勉強できないのだから。オペラをやめてよかった、とさえ私は思った。

オペラのことは頭の片隅にはあったし、現に私は自分は参加しなかったものの、会の公演はチケットを購入して見に行った。仲間たちが頑張っているな、と思ったものの、自分も参加したかった、とまでは思わなかった。それよりもむしろ、練習に通わなくていい土曜日を満喫するほうが、私にとって重要だった。

ところが事態は大きく変わってしまった。パンデミックだ。コロナウィルス感染症で、最初期から問題視されたものの一つが、カラオケだ。密な空間で歌って飛沫を飛ばすのは、最も不適切な行為の一つとされた。その時私はオペラに限らず、歌は個人レッスンも含めて一切やっていなかったので、事情がよくわからないのだが、おそらく合唱も問題視されたに違いない。日本の人口構成をも反映して、社会人合唱界も高齢者が多い。そんなことも手伝って、未だに活動を休止し続けている団体も少なくないと聞く。

裾野の広さというのは、その分野の豊かさを反映している。日本はアマチュアの合唱団が多いだけではなく、クラシック音楽の一大マーケットだと言われている。ところが、コロナでコンサートというコンサートが中止になってしまった。コンサートなんてとんでもない。密な空間に密集するなんて。そもそも命を守るためのステイホームだ。コンサートを求めるなんて、非国民にもほどがある。自粛警察がそんな奴らを取り締まらねば、というのが当時の空気だった。

音楽家たちは活躍の場を失った。不要不急の外出をしてはいけないのだ。音楽は、不要不急の代表みたいなものだ。緊急事態なのに、そんなのを求めるなんてどうかしている。音楽家たちは自らの存在意義を疑い、アイデンティティが揺らいだのではないか。そんな中、新日本フィルが人気曲「パプリカ」を、テレワークでオンライン演奏を試みた様子は、涙なしには見られなかった。音楽は不要不急ではない。心の栄養だ。緊急時こそ、なくてはならないものだ。

でも、私がカルメンをやった団体の定期公演も流れた。そもそも練習場所を確保すること自体が難しかったことだろう。ましてや身体接触さえ伴うことがある舞台なんて、論外だった。定期公演が中止になるのは、寂しかったがごく自然な流れだった。だって同じころに行われることになっていた東京オリンピックさえ、流れたのだ。オリンピックは一応延期されたが、実際には中止じゃないか、と誰もが思った。

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