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我々は全身全霊であるべきなのか


我々は全身全霊であるべきなのか

この問いに対する結論から述べることは難しい。結論から述べると誤解されてしまうかもしれないからだ。

まずはこの話から始めたい。最近話題の文芸評論家がいる。
三宅香帆さんという方で『なぜ働いていると本が読めないのか』や『好きを言語化する』など出版する本は続けざまに10万部を越えている。

三宅香帆/なぜ働いていると本が読めなくなるのか

先日、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだ。
この本のジャンルは何なのだろうか?ビジネス本でも無く、自己啓発でも無い、文芸批評のようなジャンルの本を読んだことは人生で初めてだったが、ここ数年で読んだ本の中で断トツで1番面白かった。

簡単に総括するとこの本はタイトルから予想される読書術ではない。
労働史と読書史を並べながら現代社会の働き方への強烈な問題提起をしている本である。

夢を追いかけるべきなのか

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の本では途中、『13歳のハローワーク』(村上龍)が紹介されている。この本を手に取った方も多いのではないだろうか。この本は子供が好きなことに応じて、その好きを活かせるような職業が紹介されている職業辞典のような構成になっている。
歌が好き→歌手、文章が好き→作家
などのように。この「13歳のハローワーク」は2000年代初頭のベストセラーになり学校等にも広く普及した。

村上龍/13歳のハローワーク

子供が好きな学問やスポーツや技術や職業などを出来るだけ早い時期に選ぶことが出来れば、その子供にはアドバンテージ(有利性)が生まれます。

村上龍/13歳のハローワーク

このような思想は否定されるものではないが、三宅氏はこのような思想が”消費する生き方”にピントが合わされ、そして行き過ぎた新自由主義改革へと進んでいったのではないか、と問題定義している。
そしてこのような文章でまとめていた。

90年代後半、すでに「やりたいこと」「好きなこと」を重視するキャリア教育は取り入れられ始めていた。労働市場が崩れ始めた90年代後半から、「夢」を追いかけろと煽るメディアが氾濫するようになる。
実際、学生が想像できる「夢」、つまり楽しそうな進路は”服飾・家政”や”文化・教養”など就職率の低い領域であることも多かった。しかしそういったリスクを伝えず、高校のキャリア教育は夢を追いかけることを推奨した。
つまり90年代後半から00年代にかけて、日本の教育は「好きなこと」「やりたいこと」に沿った選択学習、進路形成を推奨する教育がなされることになった。結果として「やりたいことが見つからない若者」や、あるいは「やりたいことが見つかっても、リスクの高い進路を選んでしまう」若者が増えていったのだと指摘する。
このような風潮が、自分の”好き”を重視する仕事を選ぶことを良しとする『13歳のハローワーク』のベストセラ―化につながったのだろう。

三宅香帆/なぜ働いていると本が読めなくなるのか

社会は執拗に夢を持て、夢を追いかけろと言い、SNSやYouTube、本などを見てもそのような人が魅力的に紹介されている。
このような社会的な雰囲気が、かえって「自分のやりたいことが見つからない」といって仕事に就けない人や退職者、転職者を増やしてしまったのではないかと語る。更には仕事に生活全てを捧げきるばかりに、燃え尽き症候群や鬱になる人も増えたのではないかと言及している。

熱血教師の学園ドラマは”モンスターペアレンツ製造マシーン

なんとも尖った小見出しになったが、これは現在人気沸騰中のドラマからの引用。2025年の1月から放送されたドラマ「御上先生」という日曜日のゴールデンタイムの番組があり、初回放送はVIVANTを抜く高視聴率だった。
私自身は(出来ない時期もあるが)ドラマのクール毎に、夫婦で見るテレビドラマを1つ決めて、一緒に見るようにしている。忙しい日々の中で夫婦で同じものを見るというのは貴重な時間として過ごしている。

日曜劇場/御上先生

今回は御上先生というドラマを見ることにしている。その第2回目の放送のあるシーンが話題を呼んだ。第2話(1月26日放送)の中盤、主演の松坂の好演が話題になったシーンがあった。
「こんな話があるんです。とある有名な学園ドラマの新シリーズが始まるたびに、日本中の学校が荒れて、学級崩壊を起こす」と切り出し、「(そのドラマが)生徒のために奔走するスーパー熱血教師以外は教師にあらず、という空気を作ってしまった」と言い放った。
つまり、ドラマ中では直接番組名などは言及こそしていないが「金八先生」や「ごくせん」などの学園ドラマが、”教師たるものは熱血であるべき”という理想の教師像を作りあげ、それがかえって教師の過酷な労働勤務、増加する職員の鬱、収集のつかないPTAやモンスターペアレンツを生み出したのではないかと問題定義している。

「少なからず僕は憧れました(熱血教師)けどね。以来40年以上、よい教師像はそのテレビドラマシリーズに支配され続けています。そもそも考えてみてください。全国の高校教師は約25万人。その人たち全部がスーパー熱血教師になるのと、よい教師像自体を考え直すのと、どっちが現実的だと思いますか?」

日曜劇場/御上先生第2話より

これは決して熱血教師を否定しているわけではない。社会全体に出来上がった良い教師像自体を、今の時代に合わせて考え直す必要があるのではないか?と投げかけている。

全身社会から半身社会へ

冒頭に紹介した三宅氏の本の中で「全身全霊をやめませんか」という小見出しがある。日本社会では「全身全霊」で仕事に取り組むことが当たり前とされてきた背景があり、休みなく忙しく働くことが美徳とされ、週5週6勤務、長時間労働とさらには残業が求められるこの「全身社会」では、趣味や読書、家族との時間やケアなど、仕事以外の時間を確保することが困難。また労働環境だけでなく、そのような「全身社会」が燃え尽き症候群や鬱をも生み出している弊害にもなっているかもしれないと言う。

そして私が印象的だったことは、この「全身全霊」に生きることが楽な生き方であると表現している。そうか、楽なのか…と、この表現は予想外で衝撃的だった。全身全霊とは他のことを考えなくて済むからだ。私達の生活には自分が全身で打ち込む仕事以外にも家族との時間、地域の共同体での関わり、子供が小さければ子供と一緒に過ごし関心を注ぐ時間、家族のケア、趣味や読書などの時間…一見、仕事の成果には直接結びつかないようなものこそ、むしろ人生においては大切ではないか。
そこで三宅氏は「半身で働く社会」ということを提案している。
これは手を抜くということでは決してない。フレキシブルな働き方を通じて、仕事以外にも充実した時間を過ごすことができる社会を目指すべきだとしています。この「半身」の働き方は、効率を重視し、短い時間で仕事をこなし、余った時間で自己成長や家族との時間を大切にすることを目指す。そして燃え尽きや疲れ果てない、持続的な働き方になるであろう。

我々に与えられた2つのテーゼ

前述した内容を「宗教」や「信仰者」に当てはめて考えてみた時に2つのテーゼが浮かんできた。
これはくどいようだが決して全身全霊に一生懸命歩んでいる人を否定したり問題視する話ではない。
これからの時代に適う新しい”あり方”を模索しようと身悶えする中から生まれたテーゼである。

1つは全身全霊であるべきという信仰者像を見つめ直してみるということ。献身や自己犠牲などのまさに”全身全霊である”ことがあるべき信仰者像として確立されている。しかしかえってこれが教会活動に熱心な信徒とそうでない信徒の壁や溝、分断をますます大きくしているかもしれない。また熱心な信徒であっても全身全霊や献身度を自分につき付け、まだ足りないと、自身を裁いたり追い込むことも多々ある。
教会活動をしていない信徒の方が多いとされる今、果たしてこのようなあるべき信仰者像を見つめ直してみる必要はあるのではないだろうか。
先ほどのテレビドラマでの御上先生の言葉をもう一度借りよう。
「全国の高校教師は約25万人。その人たち全部がスーパー熱血教師になるのと、よい教師像自体を考え直すのと、どっちが現実的だと思いますか?」(御上先生の発言より)

全国にいる数万の家庭連合の信徒。その人たち全員が献身的に歩む全身全霊の信仰者になるのと、信仰者像自体を考え直すのと、どっちが現実的だろうか。特に家庭連合においては開拓期の一世圏から二世圏へと世代交代をしていくこの時において、このような『信仰者像のリビルド』は必要なテーゼではないかと考える。


もう1つは教会活動に全てを捧げる信仰者像から、半身で歩む教会というスタンス。つまり今後、地域化や社会から信頼される家庭連合になっていくためには教会活動だけ熱心にしていては社会から取り残されてしまう。
そして教会を超えて地域や社会と共により良い社会を築いていくことを目指すのであれば、教会以外の複数の時間を持つことが必要ではないか。半身は教会に通いながら信仰や愛を育み、そしてもう半身は家族、地域、社会などの複数の時間に投じる、これを「半身で歩む教会」として今後の1つのスタンスとしても良いのではないか。

内容が長くなってしまったが、教会を改革するにおいては目先の活動や運営の方法や文化もそうであるが、そもそもの信仰者像から一度、立ち止まり考え直してみることから始まるのではないかと思う。

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