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オープンプラットホーム通信 第185号(2022.7.15発行分)

オープンプラットホーム通信とは、福岡を拠点に活動していうNPO法人ウェルビーイングが毎月発行しているメールマガジンです。noteではバックナンバーを公開していきます。
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メールマガジンのコンセプト


オープンプラットホームとは、人、団体、組織が自由に集まり、交流し、知恵や勇気、パワーを充電し、また、旅立っていくことができる「みんなが集える場」のことです。

初めての方へ
はじめまして。
NPO法人ウェルビーイングは、人々のwell-beingの実現するために自ら活動することを目指し、全国各地で活動している人たちを結び、集まり、分かち合い、元気になるオープンプラットホームの実現を目指しています。well-beingとは、「良好な状態、安寧、幸福」という意味です。
このメルマガでは、ウェルビーイングに集う理事や会員のそれぞれのウェルビーイングな日々やアンウェルビーイングな日々を綴ったエッセーをお届けします。


喫茶去 第84回 よいということ(3)


世紀の替わり目の社会学者エミール・デュルケムの晩年の仕事は、本人が行ったことのないオーストラリア先住民についてのものでした。当時はまだ、いまみるような人類学は未成立で、自分でそこに住みこんで自分で調査する民族誌的な方法は、1920年代のブロニズロウ・マリノフスキーを待たねばなりません。ただ、19世紀後半に蓄積された現地在住の探検家たち・宣教師たち・旅行者たちによる記録をもとに、机上の研究者らが人類学的な著作をまとめることはすでにいくつもなされていて、エドワード・タイラーのアニミズム論や、ジェイムズ・フレイザーの呪術論などは、いまもなお有用な古典的分析枠を提供しています。そのなかでデュルケムの仕事の特色は、これらの古典的著作の断片化した各地の資料のパッチワークによる論の組み立てを排して、一民族一地域の民族誌資料をもとに、ものを考えようとした点にありました。

かれが注目したのは、オーストラリア先住民のなかのアランダとよばれる部族でした。かれ自身の説明では、高度に複雑化した近代社会ではなく、より単純でみやすい「未開社会」の事例をインテンシブに分析することで、社会のありようとその連帯の仕組みを宗教生活に読みこむことができる、というものでした。その『宗教生活の原初形態』(1912)という書名にある「原初形態」には、そうした社会と宗教の原型をよみとろうとする意志がよく現れているでしょう。現在の目でみると、あれこれつっこみどころは多いのですが、かんどころだけを抽出すると、アランダの「アルチェリンガ」とよぶ精神世界と、これを日常世界に橋渡しする「チュリンガ」とよぶ祭具に、デュルケムの研究意欲をかきたてる力があったようです。

アルチェリンガはひとことで云うと、夢見を介して知ることのできる理想の世のことです。それはたんなる神話世界ではなくて、いま・ここの人生の究極的な意味づけを図るこの世の基礎にあたります。この世界図のおかげで個々の成員たちはばらけることなく強い連帯を以て日々を過ごし、祖先たちの道をなぞるように有意な人生を送るのだとデュルケムは考えました。前回述べた社会のもつ「望ましさ」は、複合社会ではみえにくくなっているけれども、ここにはわかりやすい形で神話的に(とはいえ日常生活とつながって)しっかりした表現を得ているでしょう。しかもその表象には、目で見える具体物の支えがあって、チュリンガとよぶ象徴物がそれにあたります。この祭具によって「あの世」と「この世」というか、こうあるべき「理想」とこうある「現実」が接続して成員の行動を方向づけることができるでしょう。

この着想はその後、民族誌的事実そのものについても、理論的立場についてもさまざまな批判を浴びました。でも、修士論文を書いていた時にいちばん大切に思われた批判点はこういう定常的な社会のありようが喰い破られるプロセスに関してでした。かれの最晩年の断片的な講演記録に「エレミヤなど旧約の預言者たちをどう思うのか」という質問があり、この学問的には無謀な質問に、というのもいわゆる未開社会の分析にユダヤ教の宗教者をぶつける質問だからですが、その乱暴さゆえに大切な批判点が浮かびあがります。デュルケムは正直に応えています。「わたしの研究はそこまで視野が届いておりません」。デュルケムとその周辺にあつまった研究者たちはユダヤ人でした。なのでこのユダヤ教の預言者たちのことを知らないはずはなく、むしろ当時の(前六世紀のバビロン捕囚を中心にした時代の)今ある社会を揺り動かし、ほとんど暴力的に現状を突き破る預言者たちの問題のもつ深さと大きさをふつうの研究者たち以上に知っていたはずです。そう考えると、この断片的な記録には、デュルケムの方法的無念さが露骨にあらわれていることが分かります。さてと。

☆☆筆者のプロフィール☆☆
関 一敏
勤務先:NPO法人ウェルビーイング・ラボ

感じ考え組み立てる 第60回 カタカナと漢字とポリ袋


プチプチやポリ袋の助けを借りて、様々なことを分かりやすく示す試みを続けています。この試みを続ける中で、欧米語(特に英語)とカタカナと漢字の関係が気になり始めました。
プチプチやポリ袋に触れて何を分かりやすくしたいのか、改めて整理すると、いずれも対象は"概念”です。例えばウェルビーイング、この言葉・概念が日本に輸入されたきっかけの一つが1947年のWHO憲章です。憲章前文で英語 well-beingが使われ、それをカタカナにするとウェルビーイング、さらに、それに相当無理やりに漢字を当てはめ、福祉・幸福・安寧などとしてきました。このwell-bingの意味を触覚的に考えると、どこに行き着くかについては、すでにまとめています。こうした触覚的な作業を行う中で、最近特に、カタカナ表記と漢字表記が持つ課題が気になり始めました。
欧米語の概念を日本に取り入れた時に、カナカタ表記と漢字表記とは、どのように使い分けられたのでしょうか。また取り入れに際して、様々な混乱が起きるはずですが、その結果どうなっているのでしょうか。これらの課題は、明治初期からの日本の近代化過程で大きな意味を持っていると思います。既に多くの方々が論じている課題だと思いますが、ポリ袋に触れながら考えた前例はないと判断しましたので、以下に私の考察を書きます。

【課題としての日本の知識構築の歴史的特徴】
過去150年間、日本は欧米のさまざまな概念を輸入し、翻訳し、日本社会に取り入れることにより、非常に短い時間で近代化を達成してきました。
新しい概念が日本に導入される際は、欧米語の表記法を、日本語化するために、以下2つの操作が実行されます。

操作1;カタカナで表記する: 日本語の発音を表す音節表記文字にはカタカナと平仮名がありますが、欧米語を日本語に取り込む際は、全てカタカナが用いられます。このカタカナ表記操作では、元の欧米語の発音が、カタカナに置き換えられます。元の欧米語の発音とは、結構異なる場合がしばしばです。その結果、カタカナの発音から、欧米語の本来の概念を思い出すことは、それほど容易ではありません。

操作2;漢字で表記する: 漢字表記は、かつて中国から輸入した漢字を使った、日本語の表記法です。この漢字表記の操作では、いったんカタカナで表記した後、さらに漢字を当てはめることが一般的です。(カタカナだけで表記され、漢字に置き換えない場合も、最近は増えていますが。) “中国古代の黄河文明で発祥した視覚的な表記文字”に由来する漢字は、長い歴史を持ち、独特な視覚的イメージをまとっています。そのため、新たな欧米語について、その発音に似せて、まずカタカナで表記し、さらに漢字に置き換えると、漢字が元来持っている歴史的・視覚的な意味が、組み込まれてしまいます。場合によっては、欧米語が意味する内容よりも、漢字の固有のイメージの方が、表に出てしまいます。以下に四つ例を挙げます。

元の英語 カタカナ表記 漢字表記
・Well-being ウェルビーイング 福祉
・Health ヘルス 健康
・Health Promotion ヘルスプロモーション 健康増進
・Advocacy アドボカシー 唱導

欧米起源の概念を日本に持ち込む際は、常に上記のような操作が行われるため、日本の教科書は全体として、欧米語(特に英語)の教科書よりも理解しにくいものになります。日本の学習者が小・中・高校に進学するにつれ、これらの欧米産の概念は、学習者が学ぶ教科書で増え続けており、大学の専門課程の講義で使用される教科書には、最も多くの欧米由来の概念が、カタカナか漢字かで表記されて現れます(参考として、元のアルファベット表記が示されることもありますが。)日本で大学レベルの教育を受ける場合、建前としては、必要な概念はすべて前述の操作を使用してすでに日本語に翻訳されているため、英語の本を読む必要はなく、日本語の本だけで教育を行うことができる、とされます。しかしカタカナや漢字で表記する過程で、元の欧米産の概念が日本流に加工されることになり、結果として、日本語の本は理解しにくいことになります。分かりにくい日本語の教科書を、少しでも分かりやすくするとして、多くの図やイラストが使われますが、イラストレーターが、元の言葉の意味を正確に理解しているとは限らず、さらに混乱が生じます。
これらの教科書や関連のパワーポイントから、視覚的に情報を受け止めることが多い日本の学生は、さまざまな概念を、原義からストレートに理解する機会がなく、そのために、さまざまな概念を必要以上に難しく受け止め、また概念を浅く理解したまま、表面的な暗記に焦点を合わせて学習することが一般的です。その結果、勉強は退屈になります。この状況を克服できる手段の一つが、目でイラストや言葉(カタカナ、漢字)を見て暗記するような学習ではなく、手で触覚的に、身体的に考える学習です。

以上、日本の近代化過程にカタカナと漢字が与えた影響の一端を、かなり単純化して独断で書いてしまいました。しかしこれを書いて、私の中ではプチプチやポリ袋の意味が再認識できたように思います。指先の触覚から概念を身体化して分かりやすくする活動、これからも続けて行くつもりです。

☆☆筆者のプロフィール☆☆
守山正樹
勤務先:NPO法人ウェルビーイング・ラボ


ドクター・マコ At Home! (アット・ホーム) 第134回 Norwegian Wood は、「ノルウェーの森」なのか?


ウェルビーイング・ラボの、吉崎さんが、以前、村上春樹作の「ノルウェーの森」を取り上げ、我々に問題提起をしてくださいました。ウェルビーイングの先生方は読書家が多いのですが、なぜか、アンチ春樹の人が多く、当日は盛り上がりに欠けてしまいましたが。それとは直接関係は無いのですが、ビートルズのファンを長年悩ませてきた問題が存在します。それは「ノルウェーの『森は森じゃないのでは?』問題」です。曲の原題は「ノーウェジアン・ウッド」,「Wood」を「森」と訳せば「ノルウェーの森」なのですが、歌詞をあらためて、読むと・・・・・歌詞の内容は、男が知り合った女の部屋に行く。その部屋で男が「いいよね、ノルウェーのWood」と言います。この文脈では「木製の家具」と解した方が何となくその場の雰囲気に合っているような気もします。

そこで、西日本新聞論説委員の永田健さんは、この日本語タイトルを付けた、元東芝の音楽プロデューサー高嶋弘之さんに取材。
「ビートルズの邦題はほとんど僕が付けた。それ以前の洋楽の邦題は、『涙の〇〇』とか『悲しき〇〇』ばっかり。そういうのは絶対に付けないと決めていた」
でも「涙の乗車券」の命名も高嶋さんでは?「そこは自分でも突っ込んでいる『あれは何なんだ』って。アッハッハ」
で、「ノルウェーの森」はどうして「森」に?
「僕の英語力ではWoodは木。そこへジョンの物憂いボーカルと伴奏のシタールの響きでしょう。『霧のかかった森』しか頭に浮かばなかった」
現在、この曲のCDに付いている歌詞対訳は「家具」になっているとか。しかし、歌詞を気にせず曲を聴くと、高嶋さんの言う通り静かな北欧の森のイメージが広がり、こっちの方が良いと、川上も思います。

村上春樹に話を戻せば、本書は文庫版で上下2巻になっており、川上は2回通読しているのですが、さりとて“ハルキスト”と言うほどの熱心さはなく、そこそこのファンに留まっています。しかし、言えることは、「ノルウェー製の家具」だったとしたら、少なくとも村上春樹の小説のタイトルにはならなかったでしょう。
ビートルズ研究家の行方均氏は「ノルウェーの森」の邦題を「大誤訳」であり「大傑作」と評しています。皆さんはどう思いますか?

☆☆筆者のプロフィール☆☆
川上 誠
勤務先:川上歯科医院


編集者後記


今月もメルマガをお読みいただきありがとうございました。
実家には山椒の木があり、毎年実をつけます。昨年、母から「ぬか床に入れるくらいしか使い道がないんやけど、なんかいい使い道ない?」と相談されました。インターネットで山椒の活用方法を検索してみたところ、ちりめん山椒の作り方が見つかりました。作り方は思ったよりも簡単!山椒の下ごしらえを時間を除けば、10分くらいで完成します。「これだ!」と思い、母にさっそくレシピを渡し作ってもらったところ、採りたての山椒で作るちりめん山椒は、山椒の香りや味が強いので市販のものよりも美味しい!これまで使い道に困っていた山椒が美味しく生まれ変わり、今年も美味しいちりめん山椒ができました。来年も楽しみです。

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(いわい こずえ)
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