
AIと書く短編小説「堤」
母の実家は、米どころとして名高い美しい田園地帯にあった。春になると、田んぼは水を湛え、緑色の稲の芽が顔を出す準備をしている。その中心には、神社の裏手にひっそりと佇む堤があった。堤は三角錐の形をしており、水面に映る青空と白い雲が、まるで絵画のように美しかった。しかし、その美しさの裏には、誰もが語りたがらない恐ろしい伝説が潜んでいた。
母が幼いころは田植えの時期が近づくと、母の兄が水を抜くために堤に向かうのが常だった。水底に埋まった栓を抜くため、兄は水の中に潜り込み、力強く泳ぎを始める。兄は魚のように泳ぎが得意だったが、泳ぐ彼の目の前にはいつも母の不安があった。
「またおぼれる真似をしないでね」母は心配するが、兄はニヤリと笑って水中に消えていく。
「水、流れが早くなってきた」と兄が声をあげた。その瞬間、母は何かが違うと感じた。兄が泳いでいる場所には、黒い影がちらついていた。水面が波立ち、渦を巻く。その中に、ひとりの女性の姿が見えた。彼女は、目を見開いて無表情で水に沈んでいく。
「おい、何かいるぞ!」兄の声が悲鳴に変わる。
その瞬間、母の心は凍りついた。あの女性は近くに住んでいた浮気された女だ。彼女は精神が不安定になり、堤で溺れ死んだと噂されていた。兄を引き寄せるようにその女性は水の中で手を伸ばしていた。
「ああ、助けてくれ!」兄の声は切羽詰まっていた。母はただ、見ているしかできなかった。兄の腕が水中に引き込まれ、目を見開いたまま彼女に引き寄せられていく。
「兄さん、兄さん!」母は声を振り絞ったが、誰にも聞こえない。水の流れが速くなり、兄がもがく姿が徐々に消えていく。恐怖が胸を締め付け、震える手で近くの木を掴む。
「足が引っ張られる!」兄は絶望的な声を上げた。母は、ただおろおろとすることしかできなかった。彼女の姿が見える度に、心臓が締め付けられるような感覚に襲われた。兄の必死な泳ぎが、あの女性に引きずられていく。
「やめて、お願い!」母は叫んだ。だが、その声は風に消えていく。水面が波立ち、渦が生まれ、兄の姿が完全に消え去る。母はその場に立ち尽くし、ただの観客としてその恐ろしい光景を見つめるしかなかった。
いつの間にか、周囲は静まり返り、風の音すら響かない。心の中に渦巻く恐怖と無力感が、母の心を蝕んでいく。彼女は、すべてが夢であってほしいと願ったが、目の前の現実は、決して逃れられないものだった。
そのとき、兄は無事に水から上がった。しかし、彼の表情はどこか空虚で、何かを失ったように見えた。母は、兄の姿を見て、安堵した。しかし、同時に心の奥底に残る不安が消えない。
「お前、何か見えたか?」兄は、母の目をじっと見つめた。恐ろしい記憶を引きずっているようだった。
「見た……。でも、どうしてあんなことが……」
「女が引きずり込んだ。俺は、泳ぎが得意だと思ってた。でも、あいつがいると、もがいても無駄だった。あいつの力には勝てなかった」と兄は呟いた。
母は、兄の言葉が真実であることを理解した。あの女性の怨念が堤に潜んでいるのだと。彼女は、兄を引きずり込もうとした。しかし、兄は生き延びた。その理由を探ることはできなかったが、あの女が何を求めていたのか、母の心の中に疑問が渦巻いていた。
「もう、あの堤には近づきたくない」と母は言った。兄は黙って頷くが、彼の目には恐怖が宿っていた。彼女の姿が、今でも水面の奥に潜んでいる気がしてならなかった。
時が経ち、田植えの季節が訪れた。堤の周りは春の陽ざしに包まれ、あの恐怖の記憶が薄れていくようにも思えた。今は機械化が進んで堤の水を泳いで抜くことはなくなった。あの堤の水の底には、何かがまだ潜んでいるのかもしれない。今でも湖や海などの景色を見ると、その何かが、いつか再び彼らの前に現れるのではないかと、母の胸に恐怖が渦巻く。