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なぜ、『モナ・リザ』のよさはわかりにくいのか?!
ルーヴル美術館で『モナ・リザ』を見てがっかりしたという人の多くが、「思っていたよりずっと小さい普通の絵で、よさがわからなかった」という感想を口にします。が、じつはこの「小さい」、「普通」という感想こそが、まさに『モナ・リザ』という絵が名画である理由を物語っています。
まず、小さく感じられるのは、画像や映像といった実際の大きさのわからない状態で見た時に、現実よりはるかに大きく見えている証拠ですから、むしろこの絵の持っているスケールの大きさを物語っています。ハリウッドの大スターもよく同じことを言われますし、「世界のミフネ」といわれた日本映画を代表する国際スター三船敏郎も、初めて本人を目にした海外のファンは、画面のような巨人でないことに驚いています。
したがって、『モナ・リザ』が小さく感じられるのは、美術史を代表する大スターであるがゆえ、ということにもなるわけです。
同様に、「普通」に見えるのも、この絵が歴史に与えたインパクトがあまりに大きかったことから、無数の画家達がこの絵を目標にして精進したおかげで、無数のこの絵によく似た絵が生み出されたことが原因となっています。美術に限らず、後世にあまりに大きな影響を与えた偉業というものは、後の時代の人々にとっては空気と同じくらいおなじみのものとなってしまいますから、かえってそのありがたみがわからなくなってしまうわけです。
私が、例としてよくお話するのが椅子のたとえで、座り心地のいい椅子ほど、人は椅子に座っていること自体を忘れてしまいます。私たちが椅子を意識するのは、むしろ座り心地の悪い時であり、美術史そのものが『モナ・リザ』の上にどっかりとあぐらをかいたかたちで発展して来ていますから、そのよさがわからなくなってしまうわけです。
上善は水の如し、つまり最高の善は水のように自ら主張することはない、という中国の言葉もありますが、『モナ・リザ』はまさに空気や水のように、あるのが「普通」のものとなってしまっているため、そのインパクトは理解しにくくなってしまっているのです。
水道なども、蛇口をひねれば出るのが「普通」になっていますから、断水になるとびっくりして、その「普通」のことが私たちの暮らしを支えていることに気づかされます。
そういう意味では、この『モナ・リザ』というよさのわからない名画は、私たちが「普通」と思って感謝を忘れがちな恩恵を思い出す契機にもなってくれるかも知れません。
とはいえ、そのよさがわかるに越したことはありませんので、これから折りに触れて、じっくりとこの名画のよさと、それが「普通」になった経過を御紹介していきたいと思います。どうぞ、お楽しみに!