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見られたいの前にどう見せたいの?

こう思われたい、こう見られたいが先行して、着たくもない服を着て、振りまきたくもない愛想を振りまいていく。

何度もやめようと思っていてもまた繕ってしまう。

「見られたいの前にどう見せたいの?」

どう見せたい?どう思われたい?まずはそこだろうと思う。知的?論理的?かっこいい?可愛い?
どう見せたいかは誰にもバレないのだから、なんでもいい。

見せたいものがあるなら、それは強み
こう見られたいと思ってするものと、こう見せたいと思ってするものでは全く違う。


例えばおっぱいが大きい女の子は、胸を強調する服をきる。それは「見せたい」だ、逆に大きくても見せたくなければそういう服は着ないだろう?

おっぱいを大きく「見られたい」だったらどうだろう、そもそも大きいのか怪しくなってくるだろう。


世間の良さに基準なんかない

それが売れるか、人気なるか、この先どうなるか世間がどう思うのかとかそんなの誰にも分からない、基準がないからだ。

だから誰にも理解されなくても
「どう見せたい?」と考えることが大切なんだ思う。それが基準のない世界で自分のという基準を持つ唯一の方法なのだ。

見せたいなら見せればいい。簡単だ。
見られたいなら話は別だ。それは簡単じゃない。

見せたいは自己満足、見られたいはただの欲求。

見せたいは自分の中で完結する。相手がどう思おうが見せたいからそうするのだ。頭が良く見せたい、ならそう振る舞えばいい、そこに他者の意見なんかいらない。

見られたいはただの欲求だ、頭が良く見られたい、胸が大きいと見られたい、かっこよく見られたい、欲求だし見られたいならそこ基準は相手によって変わってしまう。

相手の基準は自分では変えられない。

変えれないものを追いかけるほど辛いものは無い

だからまずは自分から、でいいと思います。

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