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遠野を走る。④

初日(9月8日)は遠野駅ではなく4駅手前の鱒沢駅からスタート。

遠野駅からは12km西側の宮守町に位置する

県道107号を南下して糠森峠を越え、山谷観音(⑦にて後述)へ向かう途中で最初に立ち寄ったのが巌龍神社である。

■巌龍(がんりゅう)神社■

「厳龍」と表記する媒体もあるようだが、「巌(いわお)の龍」と書いて巌龍神社とするべきだ
というのも
社殿後方の岩肌が天に昇る龍のように見えることからこの名がつけられたからだ

祭神はヤマトタケルということになっているが、小友川にかけられた「不動橋」と社殿後方の岩が「不動巌」と呼ばれていることからも、ご神体はあくまで後方の岩であり、ここが不動信仰の聖地であったことがうかがえる。

社殿
境内にあった小友町裸参りの案内板より
ここまではっきり由来が書かれていれば疑う余地はない
ただでさえ寒い遠野で裸参りとは恐るべし

『遠野物語』に記述がある社ではない。

しかしながら、不動講を広めた修験者の存在が『遠野物語』やこの地に伝わる伝説や民俗に影響を与えているとするならば、象徴的な場所としておぼえておきたい。

来た道を戻って県道283号に入り、綾織駅方面へ。

■光明寺■

照牛山光明寺(曹洞宗)

遠野物語拾遺の第3~4話にかけて天女の羽衣伝説についての記述がある。

第3話を要約すると、

六角牛山から来た天女が青笹の池で水浴びをしていたところ、釣りをしていた惣助という村人が羽衣を隠してしまった。返してくれと頼んだが、惣助は殿様に献上してしまったという。仕方なく天女は蓮華の花から糸をとって機織りをはじめた。ほどなく曼荼羅を織り上げるも、惣助はそれも殿様に献上してしまう。殿様は天女を気に入り御殿に住まわせたが、天女はふさぎこむばかり。ある日、虫干ししていた羽衣を見つけ、天女は六角牛山に飛んで行ってしまった。殿様は嘆いたが、後に曼荼羅を光明寺に納めた。

ところが第4話では天女帰還後の話として、

光明寺には(天女が織った)綾の切れが残っているという。あるいはまた光明寺でない某寺には、天人が織ったという曼荼羅を持ち伝えているという話もある。

第3話は青笹町に伝わる伝説で、第4話は綾織町に伝わる伝説とみるべきか。

釜石線でいうと、綾織駅は遠野駅の西側(一つ目)で、青笹駅は東側(一つ目)。

距離にして約11kmほどにすぎないが、話が食い違っている部分も見受けられるのである。

光明寺の壁に描かれた天女の壁画
綾織という地名はここからはじまったのだという

写真を撮っていると、どこからかお囃子が聞こえてきた。

しし踊りだ!
この日は綾織駒形神社の例祭日で町を練り歩いているとのこと
遠野はしし踊りや神楽などの民俗芸能も盛んな地
ちょっと今回は見ている時間がないけれども、いつか見に来よう

県道396号を北上して宮守観音(⑦にて後述)に向かう。

■続石■

その途中に続石と呼ばれる巨石がある。

『遠野物語』91話では鳥御前と呼ばれる鷹匠がこの上にある山で「赭(あか)き顔の男と女」に遭遇した話が紹介されている。

刃物で斬りかかったところ谷底まで投げ飛ばされ、その後病死してしまったという。

山の神が遊んでいるところを邪魔して祟りを受けたのではないかと言われている。

付近にあった山神の石碑
ここからは500mの登り
思ってたよりもデカいぞ
拾遺11話にはこの続石を作ったのが武蔵坊弁慶だという話が紹介されている
弁慶さん、何やってるんですかっ
横から見るとこんな感じ
巨石が2つの石に支えられているのかと思ったが
よく見ると一つの石の上に絶妙なバランスで乗っているのだ
これが接合部
ちょっと割れてるんですけど(怖
不動尊の石碑も
巨岩の不動な姿は不動信仰とも結びつきやすい

男鹿のなまはげ館の解説文ではなまはげの起源について、異邦人説や山の神の使者(赤い仮面をかぶる)の他にも、

修験者説:真山や本山には修験道の霊場があったことから、彼らの荒々しい修行の姿をなまはげに重ね合わせたのではないか

などが唱えられている。

鷹匠が山で出会った「赭(あか)き顔の男と女」も山に隠棲する異邦人や赤い仮面をかぶった宗教家、あるいは修験者であった可能性も考えられる。

③でもふれたように遠野の暗黒時代には伊達藩からの犯罪者が逃れてきたり、落ち武者が隠れ住んだという言い伝えもある。

刃物を持った鷹匠を返り討ちにするのだから、修羅場をくぐってきた者ともいえそうだ。

今も続石の前では現在も何らかの祭祀が執り行われている。

ここがなんらかのパワースポットであることは間違いない。

■千葉家(曲がり家)■

観光パンフなどに曲がり家の代表的なスポットとして紹介される千葉家
現在、「世紀の大修理」中とのこと
進捗状況はこんな感じ
地震にも強い建物に生まれ変わりそう

■羽黒堂と羽黒岩■

さらには羽黒派古修験道の一派がこの地を訪れた痕跡もある。

鳥居付近に設けられた案内板
大きな下駄は、大岩と松の木がおがりくらべ(どちらが大きくなるか競争する)をしたことで天狗に「岩のくせに樹木と張り合うとはけしからん」と蹴り砕かれた(拾遺10話)エピソードが由来か

羽黒堂は遠野遺産(認定番号78)にも認定されており、「坂上田村麻呂が蝦夷・岩武(いわたけ)を討った後、村人たちの繁栄を願って権現を祀ったのが始まり」とされている。

もちろん、主役は高さ約9mの羽黒岩と呼ばれる巨岩であり、ここにも巨石信仰が息づいている。

この鳥居もすごいな
鬱蒼とした森を進み
第三の鳥居を発見
厳重な神域である
羽黒堂
神額には「出羽神社」と書かれていた
これが羽黒岩
すでに割れている
封印されていた何かが解き放たれた?
羽黒山伏の祭場であったとみなされているようだ

9月26~30日にかけての山形旅行で羽黒山に参ってきたので、羽黒修験を含む出羽三山信仰については稿を改めることとする。

9月に入り、日の入りが早くなってきた。暗くなる前に先を急ごう。

■卯子酉(うねどり)神社■

陰陽五行に当てはめると卯(東)、子(北)、酉(西)に相当

南に相当する午がないのは含みがあるのかと勘ぐってしまうが、よくわからなかった。

卯子酉様は縁結びの神さまとして有名で、お堂で売っている赤い紐を左手で枝に結びつけることができると良縁に恵まれるのだという。

ザ・庶民信仰である
いい人みつかるといいね☆

■五百羅漢■

さらにここから五百羅漢への道が続く。

東北横断自動車道を越えて南に進み
熊出没注意の看板にもめげず
苔むした岩場を歩いているうちに
石に刻まれた仏さまを発見
これとか
これなんかも

苔むしているがために判別が難しいものも多い。

五百羅漢というが五百体はないかな。

③で述べたように、江戸期の大飢饉により遠野でも多くの餓死者が出た。

ここにある石仏群は餓死者を供養するために大慈寺19世・義山和尚が刻んだものと伝えられている。

風雪にさらされ、いずれ朽ちてゆくのが石仏の宿命でもある。

この場所は杉林により日照が遮られ、石の表面も苔でコーティングされることで石仏もかろうじて形状を保っている。

昔の写真と比べると相当わかりづらくなってはいるが、貴重な文化財を保護するためにも、苔ははがさず、そのまま残しておくことが望ましい。

■愛宕神社■

もうすぐ日が暮れる。

この日最後に訪れたのは卯子酉神社のすぐそばにある新里愛宕神社だ。

愛宕神社入口
鳥居の奥にも石段が続く

長い石段を登りながら、ふと思った。

卯子酉神社との関係である。

陰陽五行説のうち属性でとらえると卯(金)、子(水)、酉(木)となる。

方位で足りないと感じた午は「火」に相当。

愛宕神社の祭神(カグツチ神)はまさに火の神であり、卯子酉神社と補い合う関係なのかもしれないと。

五行は木・火・土・金・水からなり、ここでは「土」に相当するものがない。

土は中央に位置するか、いずれの方位にもよらないとされている。

おそらく、この近くに土属性のスポットがあるのではないか。

社寺の創建に際して全体のバランスを考えているプランナーの存在がうかがえるのである。

愛宕神社は火伏せの神として知られる

拾遺64話には手桶の水で火を消した大徳院の和尚の話が紹介されている。

翌朝に火元の家人が礼を述べるために大徳院を訪れたが、火事のことは誰も知らなかったという。それで愛宕様が和尚の姿になって、助けに来てくださったということがわかったそうな。

愛宕大権現のスーパーパワー
→和尚に変身して火事を消し止めるぞ

境内には山神と金勢大明神(⑤で紹介)の石碑も

初日は遠野駅からみて西側のスポットをみてきた。

2日目は東側。『遠野物語』のメインともいうべき舞台を紹介する。

[河童とザシキワラシが登場 ⑤につづく]

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