鬼と仏と。 秋田→青森⑥
前回(⑤恐山)は6月29日(土)の午前4時から10時ごろまでの話。
下北駅11:52発の列車に乗って野辺地駅で乗り換え、八戸駅方面へ。
途中の千曳駅で下車したところからが今回のお話。
ここから先は鬼も仏も登場しない。
いわゆるタイトル詐……もとい、ボーナスステージである(汗
■日本中央と書いて何と読む?■
13:24 日本中央の碑保存館
青森県東北町にある公園に建てられた施設内に、高さ約1.5mほどの自然石に「日本中央」と刻まれた石碑が保管されている。
クイズっぽい見出しで恐縮だが、日本中央と書いてなんと読む?
正解は、2つある。
ひとつは「にほんちゅうおう」。wikiでもそう紹介されている。
もうひとつは「ひのもとのまなか」あるいは「ひのもとまなか」と読む。
日本中央という言葉に意味を持たせたい人は後者を選ぶ。
一方、石碑としての信憑性がはっきりしていないことから、ふつうの読み方をする人もいる。
これが、歌枕にも用いられる「壺の碑(つぼのいしぶみ)」であるとするならば、大和朝廷の東北進出状況からみて9世紀ごろに刻まれたということになる。
この時代に漢字が書ける者は、高い教養と権力の持ち主であることをも意味する。
ただし、坂上田村麻呂はこの地に来ていないとする説が有力なので、後の将軍・文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)あたりかと考える者もいる。
これをどうみるか。
人の心から読み解くならば、真と偽の両方の可能性が考えられる。
この地への進出を命じられた権力者は征討を目的としている。戦(いくさ)だ。
多くの部下のいのちを預かり、果たすべき使命も背負った責任も重い。
そういう立場にある人間が何かを碑に刻むとして、たった四文字で済むのだろうか。
という理由により、これは後世による偽作の可能性が高いと考える。ただし、
そういった使命も責任もかなぐり捨てて、神社の落書きレベルでいたずら書きしたという可能性もゼロではない。
たとえば酒宴の席で、綿麻呂公がおもむろに矢じりをつかんで大きな石にガリガリと何かを刻んだとする。
「日本中央じゃ。今宵からこの場所は日本中央と定めたぞ。どうじゃ、文句があるか!」
「ふふふ、おたわむれを」
これならありそうだ。
多賀城碑は長らく偽物だと言われていたが、地元の研究者の熱意と努力により偽作説は覆された。
偽物呼ばわりする奴らを黙らせる、今後の研究に期待したい。
あと、観光客を呼び込みたいのならイメージキャラクターがほしいところだ。
俺が保存館の責任者なら真っ先にそうする。
名前はもちろん、日本中央(ひのもとまなか)ちゃんだ(笑)。
腕のいい絵師を呼べ。それが結論である。結論なのか?
■八戸市へ■
ふたたび青い森鉄道に乗って終点の八戸駅へに到着したのは14:51。
さて、どうするか。
八戸市で見たいのは是川縄文館に展示されている国宝・合掌土偶だ。
こちらについては恐山帰りでもあるし、身体を休めて明日じっくり見よう。
宿泊先の近くに八戸市博物館があって、開館は17:00まで。
情報が欲しいので、まずは博物館に行く。
それからホテルにチェックインして荷物を下ろして、まだ明るいので地元の神社に挨拶に行こう。
西側の櫛引八幡宮(南部一之宮)に行くべきか、東側の八戸三社(おがみ神社、長者山新羅神社、神明宮)を訪ねるか。
両方は時間的にきびしい。どちらかは明朝にまわすとして、問題は天候だ。
櫛引八幡宮へはバスが出ている。
八戸三社は近くにバス停があるものの、バス移動は時間がかかるため、是川縄文館行きに影響が出る可能性もある。
という理由により、八戸市博物館→八戸三社をめざすことにした。
15:48 八戸市博物館
入ってすぐに出迎えてくれたのが博物館の公式キャラクター。
竹製の厨子と木箱に入っていた毘沙門天像の全長はなんと3.6cm。
馬と人との異類婚姻譚にまつわる悲話が紹介されていた。
いたたまれなかったのでキャプションでツッコミいれます。
ポイントは、馬の皮と養蚕の2つかな。それと、
【結論】親父は許さん(怒
現時点ではなんとも解釈のしようがない。
今後もコツコツと情報収集していきたい所存。
メドツは青森県に伝わる河童の一種で、水辺の事故を防ぐための注意喚起が目的で昭和51(1976)年に田向地区に看板が設置された。
河童や妖怪話、おしらさまというと岩手県遠野市があまりにも有名だ。
実は八戸市は遠野市とつながりがある。
寛永4(1627)年、この地を治めていた八戸南部氏が遠野に移封されたことにより、遠野南部氏が誕生した。
八戸の文化が遠野に伝わったということでもあり、遠野に伝わる伝承も何らかの形で八戸の影響を受けている可能性はありそうだ。
遠野には近々行く予定があるので、とてもいい勉強になった。
17:54 おがみ神社
法霊山なんて山号を冠しながらも廃仏毀釈で潰されずに生き残ったのは、この土地の鎮守としての古い歴史があったからなんだろうな。
法霊とはこの土地にやってきた修験者で、日照りに苦しむ人々を救うべく雨乞いの祈祷を三日三晩行ったけれども果たせず。
傷心のあまりに池に身投げしたところ、法霊は龍に化身して雨を降らせたという。
ほらね、龍がらみのお話は不幸な結末が多いっていう。
その後、法霊明神として祀られ、法霊の御霊は神として鎮座した。
同社HPの由緒に関する記述はふんふんと読めたが、聞き捨てならない、ではなく読み捨てならない記述があった。
源義経が自害せずに生きのびて北に逃れてチンギス・ハーンになったという義経北行伝説に関する情報だ。
ご神職が発信力のある方で、ブログ等でも部分的に紹介されている他、TVなどのマスコミ取材にも真摯に対応されているようだ。
義経北行伝説は腰を据えて取り組まなければならないテーマだと思う。
現時点ではとても手が回りそうもないので戦術的撤退(笑)。
18:06 長者山新羅(しんら)神社
新羅三郎との呼び名は源頼義の三男・義光が新羅明神をまつる園城寺新羅善神堂(滋賀県)にて元服したことに由来する。
長男の義家(源頼朝の先祖)は石清水八幡宮(京都)で元服したから八幡太郎義家だし、次男・義綱は賀茂神社(京都)で元服したから賀茂次郎義綱。
義家は武芸に優れ、4代孫の加賀美次郎遠光より伝わる騎馬打毬(だきゅう)は加賀美流附伝八戸騎馬打毬として八戸南部藩に伝承された。
8名の騎馬武者が紅白に分かれて毬杖で毬をすくい上げ、紅白の的(毬門)に入れるべく競い合う。
江戸期に徳川吉宗が奨励したことから各藩で盛んに行われたが、現在は長者山新羅神社と豊烈神社(山形市)のみとなってしまった。
馬のイベントだな。ちょっと興味あるぞ。
八戸騎馬打毬は新羅神社内「桜の馬場」にて、三社大祭中日の8月2日に行われると。
こちらにも義経北行伝説についての記述がある。
長治山が転じて長者山か。なんだか本当っぽいな。
18:20 神明宮
7月1日に「茅の輪祭」が行われるとのこと。
最近は天照大神を祀る神社でもやるんだな、茅の輪くぐり。
以上の三社が中心となって、八戸三社大祭は毎年7月31日から8月4日にかけて行われている。
神輿の渡御を行う他、巨大な山車が市内を巡行する。
三蔵法師に孫悟空、沙悟浄、猪八戒の一行は火焔山に棲む牛魔王と妻の羅刹女、平頂山の金閣大王、銀閣大王を退治しながら天竺をめざす。
山車は妖怪を相手に奮闘する一行の場面を表現している。
恐山から移動して日本中央の碑から八戸市博物館→八戸三社まで見てきた。
がんばりゃなんとかなるもんだ。
さすがに腹がへった。
どこかでご飯を食べよう。そしてホテルに帰ろう。眠い。
[八戸で国宝と出会う最終話 ⑦につづく]