遠野を走る。③
『遠野物語』の現場を見ていく前に、その背景について簡単に述べておこう。
■『遠野物語』が成立した背景■
『遠野物語』に記された豊穣なまでの怪異譚は、山に囲まれた閉鎖的な環境によって培われてきたものだと思っていた。
村人たちは外の世界(異界)を極端に恐れ、魔の侵入を防ぐべく対策(石碑を建てたり呪物を置いたり)を施す。
それでも災厄は容赦なく襲いかかり、人々を苦しめる。
苦しみの記憶が怪異として語りつがれているのだと。
半分は当たっているし、間違ってもいる。
まず第一に、遠野は閉鎖された環境ではない。
内陸と沿岸とを結ぶ盛岡藩の要衝の地であり、江戸期に八戸より移封された南部氏(遠野南部氏)が城下町としての整備を進めたことにより、人の往来が盛んになった。
もたらされたものは物資ばかりではなかった。
商人や旅芸人などが語る全国各地の情報。その中には、伝説や不思議な話も数多く含まれていたことだろう。
情報が氾濫すればするほど、右の耳から左の耳へと通り抜け、人々の記憶には残りにくくなる。
特筆すべき点は、遠野の人々がそれらをよく記憶し、語りついだことである。
■基本は世間話だった■
人々の楽しみは、農閑期(おもに冬)になると一軒の家に集まって世間話に興じることであった。
彼らはお互いのことを知り尽くしている。噂話などしたところでさほど盛り上がるべくもない。
時間が時間だけに、盛り上がるのは怪談話ということになる。
こうした集まりの中でも、話芸に秀でた者は「ひょうはくきり」と呼ばれた。
「ひょうはくきり=ホラ吹き」とする説を多く見かけるが、そうは思わない。ホラはあくまでホラ(嘘)でしかないからだ。
ひょうはくきりの話には、遠野に住む者しか知り得ないディテールがある。
聞く者の心(感情)を揺さぶるリアリティも、迫真をもって語られる。
ゆえに記憶に残るのだ。
こうした世間話の集まりは数限りなく行われてきた。
その中からとくにインパクトがある話、記憶に残る話が参加者からその場にいなかった者にも伝えられ、やがて人々の共通認識へと発展していった。
そして、佐々木喜善という語り部から柳田國男の抒情あふれる筆致を経て『遠野物語』が完成したのである。
■昭和32年のザシキワラシ■
こう書くと『遠野物語』のエピソードの数々があたかも語り部の話芸に引っぱられた「もの騙り」として受け止められてしまうかもしれない。
しかし、けっしてそれだけではないということを『「遠野物語』を歩く』の以下のエピソードが伝えている。
昭和32(1957)年は日本の観測船が南極大陸に到達し、旧ソ連は世界で初めて人工衛星(スプートニク1号)の打ち上げを成功させた年でもある。
未知の世界を科学の力で解明しようと各国が躍起になっているさなかに、ザシキワラシの目撃事例で大騒ぎする当時の遠野の人々は、果たして時代遅れだったのだろうか。
科学においては、ある条件のもとに誰にでもその現象が再現できること(再現性)が求められ、再現性のないものは非科学的であると切り捨てられてしまう。
ザシキワラシが神霊であるとして、神霊が見える者と見えざる者とがいるという時点で、すでに科学的ではない。
ザシキワラシを目撃したのは霊媒師などの特殊能力者ではなく、新聞や牛乳の配達人、豆腐屋の従業員などの、目撃したところで得にも損にもならない(実利とは無関係な)人々である。
そんな彼らの証言を一笑に付するのではなく、その存在を受け入れ、共有し、大騒ぎする文化が当時の遠野にはあったということだ。
ザシキワラシの目撃は1957年、カッパの目撃は1974年を最後に途絶えている。これは見える者や語り部が少なくなったことと無関係ではない。
時代の移り変わりとともに、遠野の人々が持っていたある種の感性が退化してしまった、ともいえるのではないか。
こうした背景をふまえて、実際の現場を見ていくことにしよう。
[遠野物語の舞台をめぐる ④につづく]