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遠野を走る。③
『遠野物語』の現場を見ていく前に、その背景について簡単に述べておこう。
■『遠野物語』が成立した背景■
『遠野物語』に記された豊穣なまでの怪異譚は、山に囲まれた閉鎖的な環境によって培われてきたものだと思っていた。
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村人たちは外の世界(異界)を極端に恐れ、魔の侵入を防ぐべく対策(石碑を建てたり呪物を置いたり)を施す。
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とくに多いのが山神の碑だ
遠野の人々にとって最も身近な神は山の神なのだ
(村兵稲荷神社境内)
それでも災厄は容赦なく襲いかかり、人々を苦しめる。
苦しみの記憶が怪異として語りつがれているのだと。
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中世の領主・阿曽沼氏が去ってからの遠野は暗黒時代であった
伊達藩の犯罪者が逃げ込み、野武士や浮浪者が村人を襲う無法地帯と化し、旅人の姿もみられなくなった
半分は当たっているし、間違ってもいる。
まず第一に、遠野は閉鎖された環境ではない。
内陸と沿岸とを結ぶ盛岡藩の要衝の地であり、江戸期に八戸より移封された南部氏(遠野南部氏)が城下町としての整備を進めたことにより、人の往来が盛んになった。
市の立つ日には、荷役の馬三千頭が夜昼なく往来して賑わい、盛岡に次ぐ繁栄ぶりだったという。
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遠野南部家21代当主にして江戸期には異例の女性の殿様
夫の20代直政亡き後、仏門に入ったが乱れた遠野を立て直すべく当主に
暗黒時代脱出の立役者でもあり、領民たちに慕われた
もたらされたものは物資ばかりではなかった。
商人や旅芸人などが語る全国各地の情報。その中には、伝説や不思議な話も数多く含まれていたことだろう。
情報が氾濫すればするほど、右の耳から左の耳へと通り抜け、人々の記憶には残りにくくなる。
特筆すべき点は、遠野の人々がそれらをよく記憶し、語りついだことである。
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遠野を襲った大飢饉は10回を超え、宝暦5(1755)年から翌年にかけての大飢饉では領内の人口の3分の1にあたる4300人が餓死した
松崎町には死者を供養するための碑が建てられている
■基本は世間話だった■
人々の楽しみは、農閑期(おもに冬)になると一軒の家に集まって世間話に興じることであった。
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彼らはお互いのことを知り尽くしている。噂話などしたところでさほど盛り上がるべくもない。
時間が時間だけに、盛り上がるのは怪談話ということになる。
こうした集まりの中でも、話芸に秀でた者は「ひょうはくきり」と呼ばれた。
「ひょうはくきり=ホラ吹き」とする説を多く見かけるが、そうは思わない。ホラはあくまでホラ(嘘)でしかないからだ。
ひょうはくきりの話には、遠野に住む者しか知り得ないディテールがある。
聞く者の心(感情)を揺さぶるリアリティも、迫真をもって語られる。
ゆえに記憶に残るのだ。
こうした世間話の集まりは数限りなく行われてきた。
その中からとくにインパクトがある話、記憶に残る話が参加者からその場にいなかった者にも伝えられ、やがて人々の共通認識へと発展していった。
そして、佐々木喜善という語り部から柳田國男の抒情あふれる筆致を経て『遠野物語』が完成したのである。
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『遠野物語』初版本は自費出版で発行は350部だった
(伝承園・佐々木喜善記念館蔵)
■昭和32年のザシキワラシ■
こう書くと『遠野物語』のエピソードの数々があたかも語り部の話芸に引っぱられた「もの騙り」として受け止められてしまうかもしれない。
しかし、けっしてそれだけではないということを『「遠野物語』を歩く』の以下のエピソードが伝えている。
遠野において、ザシキワラシの話の糸が切れるのは昭和三十二年、Mという味噌醤油醸造会社の破産直前のことである。朝方の五時、この社長宅を出た二人の子供が、手を組んで石倉通りから中央通りを抜け、Iという建材店に入って行った。この子供たちの姿は、新聞や牛乳の配達人、豆腐屋の従業員たちがハッキリ目撃している。このため、当時人口三万の遠野は大騒ぎになり、以後しばらくはこの話題でもちきりだった。
昭和32(1957)年は日本の観測船が南極大陸に到達し、旧ソ連は世界で初めて人工衛星(スプートニク1号)の打ち上げを成功させた年でもある。
未知の世界を科学の力で解明しようと各国が躍起になっているさなかに、ザシキワラシの目撃事例で大騒ぎする当時の遠野の人々は、果たして時代遅れだったのだろうか。
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ザシキワラシは河童が陸に上がったものとする佐々木説もあれば
子供の姿をしていたとする目撃事例もありさまざまだ
科学においては、ある条件のもとに誰にでもその現象が再現できること(再現性)が求められ、再現性のないものは非科学的であると切り捨てられてしまう。
ザシキワラシが神霊であるとして、神霊が見える者と見えざる者とがいるという時点で、すでに科学的ではない。
ザシキワラシを目撃したのは霊媒師などの特殊能力者ではなく、新聞や牛乳の配達人、豆腐屋の従業員などの、目撃したところで得にも損にもならない(実利とは無関係な)人々である。
そんな彼らの証言を一笑に付するのではなく、その存在を受け入れ、共有し、大騒ぎする文化が当時の遠野にはあったということだ。
ザシキワラシの目撃は1957年、カッパの目撃は1974年を最後に途絶えている。これは見える者や語り部が少なくなったことと無関係ではない。
時代の移り変わりとともに、遠野の人々が持っていたある種の感性が退化してしまった、ともいえるのではないか。
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こうした背景をふまえて、実際の現場を見ていくことにしよう。
[遠野物語の舞台をめぐる ④につづく]