鬼の手形とムカデ姫④
6月は日照時間が長いおかげで、17時を過ぎてもいろいろ見てまわれた。
盛岡旅行記の最後は住吉神社、櫻山神社と、翌朝訪れた志波城古代公園をとりあげる。
■17:42 住吉神社■
長らく千葉県に住んでいるけど、産土神は住吉大社(大阪市)。
今はなかなか詣でる機会がないので、住吉さんがあればなるべく挨拶しておこうと。
ボクのこと、忘れんとってやー(願)。
■18:48 櫻山神社■
ここもすごい人気。ひっきりなしに人がくる。
ユニークなのは内丸に設けられた鳥居。
内丸とは盛岡城の内堀と中堀の間に囲まれた区域のこと。
かつては武家屋敷が建ち並んでいたが、今は飲食店が建ち並ぶ。
■志波城古代公園■
志波彦神社を紹介した折り(※)、志波(しわ)とは「端」を意味するもので、大和朝廷の進出によりこの地が領地の端となった説などをとりあげた。
多賀城が造営され東北進出の拠点となったのは794年。
その後も朝廷に恭順しない勢力(蝦夷)との攻防は続き、坂上田村麻呂が征夷大将軍として派遣される。
坂上田村麻呂は朝廷軍を勝利に導く一方で、802年には胆沢(いさわ)城を造営。
大量の軍勢を投入して圧倒した結果、蝦夷の首長・アテルイが降伏。
翌803年には志波城を造営し、この地を律令国家の支配下に置いた。
志波城の歴史を伝える盛岡市HPには「志波城の歴史 政庁と官衙」の項にこのような記述があった。
朝廷の蝦夷に対する扱いは、アテルイの斬首や俘囚の強制移住などのきびしいイメージがある。
その一方で、恭順の意を示す者は相応にもてなされていたことがわかる。
むろん、坂上田村麻呂の手腕によるものだろう。
蝦夷軍と朝廷軍との戦いがこの先も続く中、志波城は雫石川の水害などにより徳丹城(とくたんじょう※)への移転を余儀なくされる。
造営してわずか10年ほどで、志波城はその役割を終えるのである。
(※紫波郡矢巾町。坂上田村麻呂とともに蝦夷と戦った征夷将軍・文室綿麻呂[ふんやのわたまろ]が造営。完成は814~815年ごろか)
はじめて訪れた盛岡だったけど、1泊2日と短かったわりには内容が濃くて楽しかったなあ。
例によって宿題もいっぱいもらった。
・北上川の源流をたどる(弓弭の泉)
・宮沢賢治のふるさと探訪(花巻市)
・オシラサマや座敷童子に会いに行く(遠野市)
・できれば中尊寺金色堂も(平泉町)
【結論】岩手県には学びがある。
またいつか盛岡に……おや、何か聞こえてきたぞ。
おへれーんせー♩
おへれーんせー♩
やめろー、滝沢市観光物産協会っ!
俺の脳内におへれんせしてチャグチャグ馬コにまた来たくなるようにするの、やめてくれぇぇぇ!
不思議をめぐる旅はまだまだつづく。
[2024年6月7~8日]