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遠野を走る。⑦

今回はやることリストの4番目に掲げた遠野七観音めぐりについて。

まずは『遠野七観音』(遠野市立博物館)に記されたマップを見てみよう。

各観音堂に付けられた番号は巡拝順を示す
6番 山崎観音については本記事では「栃内観音」と表記

遠野はかつて山々に囲まれた湖であり、猿ヶ石川ができたことで水が流出し、盆地となったという。

7つの観音堂は、遠野の市街地を包囲するかのように建てられているのが特徴だ。

■遠野七観音とは何か■

伝説では、この地を訪れた慈覚大師円仁が一本のカツラの木から七体の観音像を彫って安置したとされている。

慈覚大師円仁(794~864)は下野国(今の栃木県)の出身で、天台宗の開創者である最澄のあとを継ぎ、61歳で第三代天台座主となった。

45歳で唐にわたり密教の奥義を学ぶも会昌の廃仏(※)により帰国。

その後も諸国を巡歴し、天台宗の布教に務めた。

(※唐の皇帝が道教保護のために仏教を弾圧。寺院が破壊され、数多くの僧が還俗させられた)

円仁が遣唐請益僧となったのが835年で、帰国したのは847年。

遠野七観音の成立年代を探ると、円仁が諸国を巡歴していた850~851年ごろとされている。

しかしながら、平倉観音の成立が834年だったり笹谷観音が851年だったりと、円仁が入唐していた時期を避けてはいるものの、その創建年代には開きがある。

佐伯有清『円仁』(吉川弘文館)
会昌の廃仏からの命からがらの脱出劇がすさまじい

当時の記録は火災で焼失し、残っているのは江戸期に再建された堂宇と新たに書かれた縁起であり、これをそのまま鵜呑みにはできない。あくまで伝説ととらえておくべきだろう。

七観音とは本来、天台宗と真言宗が寺院の本尊として祀る観音像を合わせた七種(※)を意味する。

(※聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、不空羂索観音、准胝観音)

遠野七観音は必ずしもこれに準ずるものではない。おそらく、七観音めぐりの流行に合わせて後から追加されたのではないかと思われる。

このように記録をたどれるのは江戸期までとなるが、鞍迫観音に伝わる像(焼損して原形をとどめていない)の成立が平安中期とみられることから、遠野における観音信仰は古くからあったとはいえそうだ。

以上をふまえて、遠野七観音をそれぞれ見ていこう。

■9月8日(初日)■

初日は遠野市の西側に位置する山谷観音、鞍迫観音、宮守観音の順にめぐった。

先に示したマップの番号は巡拝の順番を示すものだが、移動の効率を優先したため順不同であると記しておく。

第一番 山谷(やまや)観音

鱒沢駅を出発して①で紹介した巌龍神社の2kmほど先に位置する。

遠野七観音の一番にして遠野遺産の第1号認定施設でもある。

鳥居をくぐり、木々が生い茂った参道を進む
観音堂は小高い場所に鎮座
かつては二十四坊を有する大寺だったが南北朝時代に焼失
元禄4(1691)年に再建されたがこれも焼失
現在の観音堂は元禄12(1699)年に再建されたものである
拝観できない者のためにイラストも(笑)
本尊は江戸期に彫られた十一面観音像
焼損した慈覚大師による像は秘仏とされている

第四番 鞍迫(くらはさま)観音

鱒沢駅方面に戻って県道283号を東に3km進むと、荒谷前駅のそばに駐車場が見えてくる。

参道脇にわさび畑を発見
宮守地区のわさびは東北ではトップクラスの収穫量を誇る
慈覚大師円仁が十一面観音像を安置したのは仁寿2(852)年
建武元(1334)年に南部師行から社領70石を賜ったとの記録が残されている
観音堂は万治2(1670)年に全焼し、寛文10(1670)年に再建
焼け残った十一面観音像は現在も残されている
(画像は案内板より)

と、ここまでは順調だったが、綾織駅付近から宮守観音方面へと向かう県道396号の上り坂で脚にダメージを負ってしまった。

延々と続く登坂車線
トンネルもある
暗いよ怖いよーっ!!!
これが1km続くんだぜ

第五番 宮守(みやもり)観音

やっとの思いで見つけた宮守観音への鳥居
ここからさらに150mほど登る
観音堂が見えてきた
寺院としての草創は大同2(807)年
明治期に愛宕神社と併合された
それにしても扁額は愛宕権現(笑)
本尊は嘉祥4(851)年に慈覚大師が彫ったという千手観音
火災のときに信者が山中に埋めたが発見できなかった
現在は江戸後期に制作された像を本尊としている

■9月9日(2日目)■

右脚ふくらはぎの肉離れにより苦戦必至の2日目。

遠野市の東側をめぐりつつ平倉観音と栃内観音をめざした。

第三番 平倉(ひらくら)観音

『遠野古事記』によると承和元年(834)年の草創で、本尊は十一面観音像。

火災のときに尊像が飛び出して現在の場所にとどまったという。

平倉観音は岩手上郷駅にほど近い山際にある
観音堂の再建は宝暦10(1760)年
山の寺は参拝に苦労するが、木々により雨風や日照から堂舎を守ってくれる
江戸中期の建立としては軒の支輪部分も美しく、保存状態のよさを感じさせる
屋根は昭和53(1978)年に茅葺きから銅板に改修したとのこと

第六番 栃内(とちない)観音

写真を見直すと撮影当時のことを思い出す。

ウエストポーチに入れたバックアップ用のコンデジで案内板や標識などもパチパチ撮っているつもりだったのに、ここにいたってはそれすらもしていない。

ふくらはぎの痛みで集中力を欠いているようだ。

自転車に乗っている間はそうでもないのだが、降りて歩くとてきめんに痛い。

足を引きずりながら鳥居の前に立つ
奥に建物が見えるが、観音堂はさらに山道を登った場所にある
こちらは山門
天井に大きな絵馬が見える
本尊は馬の守り神である馬頭観音
なんとも劇画タッチの絵馬である
観音堂
別角度からも
馬頭観音像のイラスト
三面忿怒相が特徴だが頭上の仏さまが馬頭を抱いている容姿は珍しい
栃内観音の説明がパーフェクトなまでに伝えられている
庶民の間で七観音めぐりが流行したのは宝暦年間(1751~1764)

ここからさらに、山崎金勢様→伝承園→常堅寺→倭文神社→遠野市立博物館に移動。

■9月10日(3日目)■

夜明け前に足を動かしてみた。昨日よりも回復している。

10歳ではじめた空手のおかげで、鍛えかたや故障の治しかたについては熟知できた。

・日常生活に支障が出るなら運動は休むこと
・支障が出なければ痛みがあっても身体を動かすこと
・上半身を故障している場合は下半身を、下半身を故障している場合は上半身を鍛えること

痛みがあるうちは運動を休めというのが今でも定説だ。

しかし、とくに関節部位においては完治するまで待っていては関節が固まってしまうことで可動域が狭くなり、パフォーマンスが下がってしまう。

痛みがあっても、よく動かしてやる必要があるのだ。

また、故障部位以外を鍛えることで全身の血流が上がり、回復が早まる効果もある。

痛みをこらえて鍛え続けられるかどうかは身体機能というよりは個人の意志の問題となる。要するに、気合いと根性だ。

どんなに困難な道のりであっても、歩みを止めなければ必ずゴールできるのだと思っている。

歩みを止めないためには気合いや根性だけでなく、それを支える強い動機づけも必要となってくる。

観光客向けの史跡めぐりでもしていればよいものを、敢えて苦行のような七観音めぐりに挑んでいるのはなぜか。

不思議の謎を解くためだ。

七観音の成立については、もはや検証不可能となってしまった感が強い。

慈覚大師円仁が関与しているかどうかさえ、はっきりとしたことは言えない状況だ。

それでも、観音堂がこの場所に建てられたことには、なにか理由があるはずだ。

遠野の市街地を包囲するかのように建っているのは、果たして偶然なのか。

そのことを自分の足で確かめてみたい。痛いけど。

第七番 笹谷(ささや)観音

早池峰山方面に向かうバス停から西に500mほど。

順番でいえば、ここが最後に巡拝する観音堂となる。

なかなか味のある鳥居
ここからさらに山道を進む
草創は大同2(807)年で、本尊は勢至観音
現在の観音堂は享保(1716~1736年)の頃に村人たちが再建した

勢至観音に少し引っかかった。

本来は勢至菩薩であり、阿弥陀如来を本尊とする寺院では観音菩薩とともに脇侍として左右に配されることが多い。

まあ、慈覚大師さまが作られたことなので(笑)。

勢至菩薩(観音)は知恵の光によりあまねく一切を照らすという
個人的にはもっともあやかりたい仏さまである

ここから早池峰神社にいたる登りと荒川駒形神社にいたる山道をクリアしつつ、⑥で紹介した母也明神を経て、七番目の観音堂にたどり着いた。

第二番 松崎(まつざき)観音

巡拝の順番こそ二番目ながら、最後に訪れた観音堂が松崎観音である。

市街地から近い(アクセスが容易)ことから後回しにしたというのが理由。

草創は大同2(807)年で本尊は十一面観音像
現在の観音堂は享保9(1724)年の再建であり、本尊も慶長11(1606)年の作と伝えられる

『遠野七観音』(遠野市立博物館)掲載の『閉伊郡遠野松崎村観音由緒』によると、

慈覚大師が一木を以て作ったのは七体ではなく、「四像」と伝えるのはこの資料のみである

と記されていることから、七観音はもとは四観音だった可能性も考えられる。

慈覚大師彫像などとウソをついてるのはどの子かな(笑)。

また、興味深い石碑が境内に残されていた。

『遠野七観音』によると松崎寺を開山した善秀和尚の百五十年供養碑とのこと
案内板より

母也明神でも松崎村の用水問題で巫女にうかがいをたてており、集落で何か問題が起こったときに巫女に相談するという慣習があったようだ。これはおぼえておきたい。

■七観音の配置が示すもの■

遠野に伝わる伝説によると、

松崎観音の像は霊木最根幹から刻み、山谷観音の像は最末幹からとり、他はその中間から刻んだ

『遠野七観音』より

ここから先は個人の感想(こじつけ)ととらえてほしい。

『閉伊郡遠野松崎村観音由緒』が示す四像が第一番(山谷)から第四番(鞍迫)のものであるとするならば、いずれも十一面観音像であり、現在も残されている鞍迫観音の像(焼損)が平安中期ごろの作とみなされていることからも、この四堂が最初に建立された観音堂ではなかったか。

第五番~第七番の堂宇は第一番~第四番の北側に建てられている

遠野七観音の巡拝は一昼夜のうちに行うと、とくに御利益が高いという。

第五番以降の観音堂が後から建てられたものだとして、七観音めぐりの難易度を上げるために、四堂よりも距離が遠い集落に配置したという見方もできる。

また、地形の問題は無視できない。

遠野は湖の川が流出して盆地になったという。

そうはいっても、平安期はまだ湖の名残ともいうべき湿地帯がところどころにあったとも考えられる。

そういう場所に寺院を建てられるはずもなく、選ばれるのは高台や山際などの地盤がしっかりした場所ということになるだろう。

そしてもう一つ、「岩手史学研究」に興味深い記述があった。

遠野七観音と遠野三山との関係を示した略図
(福田八郎「遠野の七観音について」岩手史学研究第56号より)

早池峰山を頂点として、

・西側:石神山と第一番(山谷観音)
・中央部:早池峰神社、神遣神社、第七番(笹谷観音。論文では附馬牛観音)、第二番(松崎観音)、第三番(平倉観音)
・東側:六角牛山と第六番(栃内観音。論文では山崎観音)

これらが直線上に並んでいるというのである。

第四番(鞍迫観音)や第五番(宮守観音)のような例外もあるものの、もちろんこれらは計算し尽くされたものだろう。

遠野全体を概観した上で、信仰の対象であるお山(遠野三山)と信仰の拠点である社寺が直線上に並ぶように設計できる力量の持ち主が平安期にいるとするならば、恐山を開基し、立石寺を創建するなど東北において群を抜いた影響力を示した聖地ビルダー・慈覚大師円仁に他ならない。

遠野七観音は遠野三山や関連する神社とも無関係ではないことがわかった。

もはや足が痛いなどと言っている場合ではない。

遠野三山に伝わる伝説の現場に行ってみよう。

[次回、遠野編ラスト ⑧につづく]

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