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加賀から越中立山へ。石川→富山④
3日目(11月1日)の朝。富山県の天気は曇りのち雨。
本日は能登国から越中国に入ります。ここからが富山編。
前回ラストの妙観院にたどり着けなかった場合は翌朝まわしにしようと思っていたところ、なんとかクリアできたので7時台の列車で高岡駅に移動。
今回は越中国に一宮が4つもある件について整理しながら伝えていきたいと思います。
なぜだ!? 越中国に一宮が四つ
一宮はその国においてもっとも社格が高い神社を意味します。「もっとも」というからには、一国一社が原則であるはず。
なのに越中国には一宮が4つもあるという。すなわち、
射水神社(高岡市二上)
氣多神社(高岡市伏木)
高瀬神社(南砺市高瀬)
雄山神社(富山市中新川郡立山町)
いつも参考にしている『日本の神々 神社と聖地』を乱暴に要約してみると、
・氣多神社が一宮になる以前は射水神社が一宮だった
・高瀬神社は射水神社と同階・同格だった
・氣多大社より勧請された氣多神社は国府に近いため一宮に昇格か?
・雄山神社は『神道集』『日本鹿子』では一宮とされている
それぞれ動かしがたい事実と根拠があるようです。
射水神社のように明治期に高岡城跡に遷座した例もあるので、詳しくは個々にみていくことにしましょう。
越中総鎮守一宮 射水神社
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射水神社はもともと高岡市二上にあったものが明治8年に現在の高岡古城公園のある場所に遷座しています。
さらに氣多神社のあった場所との関係を地図でみると、
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一般道で約5kmの圏内に越中国一宮が2社も存在していた
『日本の神々 神社と聖地』の氣多神社(本文は気多神社)の項には、
『越中国式内等旧社記』には、当社は能登国が越中国から分離したあと能登の気多大社の分霊を勧請して創建され、よって新気多明神というとある。この「新気多」の名称は加賀国白山比咩神社酒造の『白山之記』にも見え、二上(二上の射水神社)と争って一の宮の地位を奪った旨が記されている。
射水神社にとっては、このような扱いは不愉快きわまりないことでしょう。
明治維新までは、いわゆる神仏習合により名のある神社は寺院の管理下に置かれていました。
それまでの祭神は二上山大権現だったのが、神仏分離令により瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に変更されています。
ニニギノミコトは天孫降臨の神であり、アマテラスの孫にして天皇の祖神でもあります。
二上の地元に根づいた二上山大権現と天皇の祖神である瓊瓊杵尊はまったく別の神格です。
祭神を変更し、遷座を決断した射水神社側の心のうちを読み解くならば、そこには仏教による支配からも一の宮争いからも逃れて、すべてをリセットしたいという思いが強くあったのだろうと考えます。
いわゆる戦術的撤退の判断ではありますが、神社の長期的存続ということを考えた場合、これは明らかに有利に働くはずです。なぜなら、
参拝客にとっては主要駅に近いほうが便利
これに尽きます。
このように、旧・射水神社(後述)と一宮・射水神社は別ものと考えるべきですが、現在は旧社を元宮として、令和7(2025)年に斎行される百五十年祭に向けて良好な関係を保っているようです。
遷座を認めたのは明治政府であり、それによって社格が下げられるなどの措置がとられたわけではない(むしろ県内最高位の国幣中社になった)ので、遷座した射水神社が一宮を名乗ることには何ら問題はありません。
これらをきちんと指摘しておかないと、神社側の都合で信仰の拠点を引き離されてしまったかつての氏子たちがあまりに不憫です。
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こちらもじっくり見たかったが時間の関係でパス
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昭和天皇より幣帛料を賜り、昭和50(1975)年の遷座百年祭に修築された
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伊勢の豊受大神宮(外宮)の板垣北御門(=鳥居)を譲り受けて建てられた
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越中総社射水神社
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「越中総社」とありますが、令制国時代の総社ではありません。
一宮・射水神社が二上の地から高岡城跡に遷座したのは明治8(1875)年。
遷座の当日、二上村の氏子は神輿にとりすがって号泣し、別れを惜しんだという。そして三日後、彼らは新社殿までの道のりが遠いことを理由に旧社堂に射水神社の分社を創立することを出願し、同十年に許可を得、これが戦後に独立して「越中総社射水神社」と称するようになった。
二上村は二上山のふもとにあり、射水神社は二上山大権現を祀っていたことからも自然崇拝の社であったことがわかります。
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(真言宗高野山派)
長らく射水神社の別当をつとめ、氏子の多くはこの寺の檀家でもあっただろうと思われます。
いくら神仏分離令により神社が独立を果たそうとも、氏子(檀家)の意識としてはそれまで通り寺の管理のもとで運営される神社であって、イメージは簡単に拭いきれるものではありません。
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後戻りせず前に進めとおっしゃるのですね
大師さま
(↑翌日のことを言ってる)
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祭神は今でも二上神と思われる
というのも
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二上神(山の神)は天狗の姿になって里に現れ、周囲を四天王が固めている
四天王は仏法守護の護法神
ここまで社寺の関係が近すぎて神仏習合の伝統行事が堅守されていると、一宮・射水神社としては新天地での再出発を求めるよりなかったのかもしれませんね。
でも、どちらからパワーをもらえるかって聞かれたら、圧倒的にこちらですよ。個人の感想ですけどね☆
氣多神社までの約6kmは自走で移動。
高岡市伏木という町も俺のようなタイプの旅人は来なければいけない感じの場所でした。というのも、
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あれなのかなー。俺のようなタイプの物書き(あらぬ方向にとんちが働くスーパーパワーの持ち主)に七不思議を作ってもらいたいっていう天からのメッセージなのかなー。←え?
ではさっそく。
ふしぎな伏木(ふしき)の七不思議
#01 なぜだ!? 一宮が総社で総社が一宮
越中国一宮 氣多神社
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こんなに気合いの入った由緒は久しぶりに見た
とくに終盤の、
畿内政権とは異にし、日本海沿岸域は高志と出雲が連携掌握していた地域であったと思われる。
ヤマト王権を畿内政権呼ばわり。実にいい!
でも冒頭の「越中國一宮 延喜式内名神大社 越中國総社 氣多神社」がどうにも引っかかるところ。
くり返し述べますが、中央政府から派遣された国司はその国の神社を社格が高い順に参拝することが義務づけられていて、それでは仕事に差し支えることから、平安後期以降は総社を建てて一つにまとめたという経緯があります。
序盤に記したように、越中国の最初の一宮は射水神社(二上)です。
伏木は国分寺薬師堂(氣多神社から500m)に国分寺跡があり、さらに1km離れた古古府(ふるこふ)地区の勝興寺境内に国庁跡があることから越中国の中枢とみなされており、国府も当然この場所にあったと考えられます。
氣多神社は能登国が越中国から分離した後に、一宮・氣多大社の分霊を勧請して創建されました。
おそらくこの段階では国司が通いやすい総社としての扱いだったと思われますが、射水神社から一宮の座を奪ったということは先に引用した『日本の神々 神社と聖地』の一文の通りです。
そして、ここが総社であったとする根拠が、
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鶏が先か卵が先かの議論はこの際どうでもいいです。
氣多神社の境内に総社を建てて、一宮争いをして射水神社からその座を奪ったのだとしたら、これは国司による強権発動以外の何ものでもありません。国司だったら何をやっても許されるのか!
これが一宮が総社であり総社が一宮であることの真相……あっ、しまった!
七不思議は謎解きしてはいけないのだった!
えー、不思議ですねえ。なぜ一宮が総社になるんでしょうかねえ(滝汗
みんなが忘れてくれるように氣多神社の写真いっぱい載せておきますね☆
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石段の向こうに鳥居が見える
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あなたはだんだんさっき言ったことを忘れてしまうー(催眠術
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主祭神:大己貴(おおなむち)命、奴奈加波比賣(ぬなかわひめ)命
相殿に事代主(ことしろぬし)命、菊理媛(くくりひめ)命
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主祭神に奴奈加波比賣命を祀っていることについては、由緒通りのぶれない姿勢を高く評価します。
(この姫神さまについては次回シリーズの新潟編で触れるので割愛)
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なぜか控えめ
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越中国司だった大伴家持(おおとものやかもち)を祀る
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だからセーフ。何がセーフ?
一宮と総社の場所についてはわかった。
残る国分寺や国庁跡がこの近くにある。行ってみよう。
国分寺薬師堂(国分寺跡)
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修復中とのことだがコロナ禍や能登半島地震などもあって、作業は遅々として進んでいないようだ
文化財に対する行政の取り組みもさまざま。
場所がわかっただけでもよしとするべきなのかな。
国庁跡は勝興寺の境内にあるらしい。
ここで名称についてざっくり解説しておくと、
国府(こくふ)政務が行われた土地全体
国衙(こくが)役所が置かれていた区画や建物群
国庁(こくちょう)国司が執務を行った施設
国府が地名として残りやすいのは土地を意味するから。一方、国衙や国庁は建物なので出土品、史料などから推定していくしかないという難しさがあります。
それにしても、なぜ国庁跡が勝興寺にあるのでしょうか。
これも七不思議になるかな?
雲龍山勝興寺(国庁跡)
勝興寺は浄土真宗本願寺派。
不思議めぐりをしているからなのか、真言宗のお寺さんばかり見てきたような気がするけれども、越中は真宗王国なのでした。
中でも本願寺派は一向一揆を主導した武闘派の印象。
戦乱の中、勝興寺は移転に次ぐ移転を経て現在の場所へ。
江戸期に入って加賀藩の前田家との結びつきを深め、寺領を拡大させつつ伽藍を整備することで北陸屈指の大寺院へと変貌を遂げたのです。
今回は時間がなくてゆっくり拝観する時間がありません。そこで、
3枚で語ろう!勝興寺の文化財建造物
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彫刻装飾が素晴らしいという評価をよく聞くけど、どうみても屋根瓦でしょ
しゃちほこって、城郭以外で初めて見たよ
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京都興正寺の勅使門を明治26(1893)に移築
屋根部分は檜皮葺(ひわだぶき)
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北陸において国宝の本堂は明通寺(福井)とここだけ
[瑞龍寺(富山)は禅宗で仏殿と呼ぶ。こちらも国宝]
国庁跡は本堂左手に見つかりました。
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裏には大伴家持の歌
あしひきの 山の木末(こぬれ)の ほよ取りて かざしつらくは 千年(ちとせ)寿(ほ)くとぞ
現代語訳:(あしひきの)山の梢のほよを取ってかざしにしたことは千年の命を祝ってのことである
ほよ(保与)はヤドリギ(常緑樹)の古語で、かざしは髪飾り。
勉強しなければならぬことが多すぎるでござるよ、家持殿~っ(汗
ところで、この勝興寺にも七不思議があるとのこと。
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ただし、四の「屋根を支える猿」は肉眼では確認しづらい
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勝興寺にお越しの際は、ぜひチャレンジしてみてほしい。というわけで、
#02 なぜだ!? 勝興寺の七不思議は難しい
先を急ごう。急ぎながら七不思議を完成させよう。←なぜだ(笑)
そういえば、伏木駅で見たあの像も不思議だったなあ。
#03 なぜだ!? こんなところに弁慶さん
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安宅の関での勧進帳の場面(逃避行中の義経を助けるべく弁慶がウソの勧進帳を読み上げ、義経を杖で打ちすえることで関守をあざむく)。
これは『義経記』に記された「如意の渡し」での一件を安宅を舞台に書き換えたものであり、渡し船が運航された渡船場はかつてこの地にあったとされています。
『義経記』には弁慶が扇で義経を打ちすえたと記されていることから、銅像も忠実に再現しているというわけです。
……べ、べつに謎解きしてるわけじゃないんだからねっ。
この先、万葉集に言及することもあるだろうから、万葉歴史館で資料を入手しておこう。
その途中でまたしても銅像を発見。
#04 なぜだ!? イケおじすぎる家持さん
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出羽三山神社で見た芭蕉翁像もかっこよかったけど、こちらもいいな。
正体は忍者とみた(【どこビュン】山形、ふたたび。③の回より)。
万葉歴史館
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写真撮影は不可
万葉集の5種類の写本(五大万葉集)の説明や代表歌人、大友家持の生涯に古代越中国の歴史なども紹介されていて、初学者にはとても勉強になりました。
でも、やはり気になるのはこちら。
#05 なぜだ!? むしろ隣の女性が気になるぞ
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貴族の女性のことを大嬢(おおいらつめ)と呼んでいた
家持にとっては従妹にあたり、後に結婚
……家持クン、こうゆうのが好きなんだー(チラ見
ち、違うよっ(顔真っ赤
アオハルですなー。←何が見えてるんだっ!?
気象資料館
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国守は国司の長官に相当し、専用の官舎が与えられていた
だいぶ雲行きが怪しくなってきたぞ。予報では夕方以降に雨が降るらしい。
今日のうちに高瀬神社に行って、翌朝の雄山神社につなげないと。
急いで伏木駅へ。
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気になって調べてみたところ、衝撃の事実が発覚した
#06 なぜだ!? 家持くんの弟は利長くん
身長:2メートル00センチメートル(日によって、10センチメートル~15センチメートル程度の誤差がある)
体重:65キログラム(日によって、5キログラム~10キログラム程度の誤差がある)
というプロフィールも驚きだが、
兄弟:「高岡開町400年」の推進役で活躍中の「利長くん」は弟にあたる。
加賀藩初代藩主・前田利長公をモチーフにしたご当地キャラも、大伴家持卿をモチーフにした家持くんにとってはかわいい弟だったのだ。
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……時空を超えた絆、だと?
そうか、わかったぞ。
#07 なぜだ!? 駅前のポストも家持さん
総社や国府跡を探しているのに、やたらめったらいろいろな家持像に出食わしたのには理由がある。
この世の磁場が狂ったことにより異次元の扉が開いて、ふしぎ空間・伏木は妖怪や魑魅魍魎が跋扈する恐ろしい世界になってしまった。
そんな伏木の町を救うべく、多元宇宙からいろんな大伴家持が駆けつけて悪い妖怪を退治していたのだ。
いわゆる、家持バースである。
蜘蛛の能力を持ったヒーローのお話のようだが、無関係だと思っていただきたい。
そして今、新たな家持が立ち上がる!
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写真使う機会なさそうだったからここで使っとく
ちなみに隣の女性は女性神官の衣装を着ているので大伴大嬢では断じてないことだけは記しておく。
もし、みんなの周りで不思議な出来事が起きて、それが妖怪の仕業だと思ったら家持ポストから手紙を送ってみよう。
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家持さんが下駄をカランコロンと鳴らしながらやってきて、万葉パワーで悪い妖怪をこらしめてくれるぞ。
おっと、電車の時間だ。では、また!
[次回、石川→富山編ラスト⑤ なぜだ!? 地獄の沙汰も雨次第]
……万葉パワーって何だよ!