さよなら鉄道 鉄オタだった20年 前編
※読者の皆様へ
この記事は一部の鉄道が趣味の人間に対して批判的な内容を含みます。また、中編の記事では並行在来線問題というデリケートな話に触れます。気分を害されそうな方はブラウザバックをお願い致します。
また、ダイヤ改正予想の次の記事がこれかよという意見はごもっともです。ただ、大好きだった特急が区間廃止されるといういい機会に、前から鉄道に対して根底にあった事を記させていただきます。
3部構成です。
https://note.com/open_eel3950/n/n69926a10fe17 中編
https://note.com/open_eel3950/n/n9506f7221024 後編
まえがき-ダイヤ改正発表に際して
私は物心ついた頃から鉄道が好きでした。両親はそんな私を受け入れ、図鑑もたくさん買ってくれたし、多くの路線を見に連れて行ってくれました。
鉄道が社会的にみて望ましくないと思われる事が多い趣味な事を知ったのは、中1でした。中1までそんな事すら知りませんでした。そこから20歳になる今まで、私の中には葛藤がありました。
ただ、そろそろ19年間の思い出と葛藤と、決別すべきだと思いました。
大好きだった特急「あずさ」の区間廃止に際して。
小学校時代 - 鉄道好きへの門
私は幼い頃、母や祖母と散歩している時に電車に手を振って警笛を鳴らして貰うのが好きでした。よくいる子供でした。
幼稚園の頃トミカにハマる子が多い中、プラレールにハマりました。トミカが多いというだけで、少数派ではあったもののよくいる子供でした。
ただプラレールにハマりすぎて、幼稚園の時点で「この電車なんていうのー?」と連日両親に質問し、そんなに興味あるならと鉄道図鑑を買ってくれました。
この時点で、まだ幼い私の好奇心は鉄道に向いていたのです。今も変わらずそのような人間なのですが、ハマったら一つの事に熱中する私の人間性がそこに導いたように感じます。
ただそこからがまずかったです。上述の通り熱中しやすいので興味が加熱し、何の役にも立たないのに駅名の暗記を始めました。
そして小4になる頃に、都市圏の路線はJR私鉄関係なくほぼ駅名を言えるようになりました。
父はそんな小学生の私を連れて、遠くの電車でも沢山見せに連れって行ってくれました。山梨長野が多かったので、新宿から中央線を信州に抜けていく特急「あずさ」が自然に好きな電車になりました。
その頃同時に、友達と話す事がない事に気づきました。
人と話す事が嫌いではなかったので、皆と色々話したいなと思い「ドラゴンボール」と「ONE PIECE」の設定を半年かけて勉強しました。
これは鉄道にしか興味がなかった私が、人と関わるために他の事を知ろうとした初めての試みでした。
最初は明らかに勉強でした。ただ、この2つの漫画はそんな私でも知れば知るだけハマっていくくらい面白く、人と関わる大切さを学ぶきっかけになった、私とってとても価値のある作品です。今でも好きです。
やはり皆が話題にしている事に関心を持つと、自然と話す友人は増えます。
「鉄道は鉄道」「皆が好きなものにも手を出してみる」
これでいいと安易に考えていました。鉄道好きが社会からどう思われているかなど全く考えずに。
中学校への進学 - 鉄道研究部か運動部か
小6で中学に進学するとなった時、珍しいものでその中学には「鉄道研究部」なる部活がある事を知りました。絶対そこに入ろうと思い、部活選びの視野はそこしか見ていませんでした。
そんな中、母から「それもいいけど、運動部に入るメリットもあるからそれも視野に入れな」とアドバイスをくれました。
周りの友人も「運動部に入る」と言っている割合が高く、一応はそれも視野に入れてみる事にしました。
結局私は運動部に入り、小学校から一緒に上がった友人で鉄道好きの奴が一人だけいたから、そいつから鉄研の話を聞いた上で後から兼部しようと考えました。
これはまさに先述した「鉄道は鉄道」「皆が好きなものにも手を出してみる」という社会目線を知らない考え方に基づく行動です。
ただ運動部で過ごすうちに、全員がそうでは無いけども、鉄研の周りには少し周りとうまくやれないような奴らも少なくない事に気づきました。
鉄道好きな人には自分の世界に閉じ籠る人が多い事を身近に実感しました。そして気付いたら自分のYoutubeに線路や私有地入ってまで撮影を行う人達の動画が流れて来て、その時にいわゆる鉄オタに対する社会的な目線について知りました。
ただ、鉄研にはさっきの小学校が同じ彼、中1で仲良くなった友人のうち2人が部員だったので、そこと鉄道について話す事は楽しかったです。
「鉄道は鉄道」「皆が好きなものに手を出してみる」が安易でも、話していて楽しい友人までを削る事はできません。
そこから私は「人間関係は人間関係」「話題は友達にあった話題」と捉え方を変えました。「友達にあった話題」というスタンスな以上、後者の手を出してみるスタンスは変わりません。流行りのゲームもやっていたし、皆の好きなドラゴンボールとワンピの話を出来るのはやはりデカいことで、私は中1の時点で友人に恵まれました。
一方、仲良い友達が鉄研で嫌われ者に振り回されてる現状を見て、鉄道を趣味であることへの葛藤も持ち始めました。
社会的に受け入れられにくい趣味を持つ事と、社会への共存をしたいと言う考えは安易だったのではなかろうかと。
学校でもうまくやれない、それと同じくくりの奴らが犯罪行為をしてるとなれば、まぁ当然の事です。
中学在学中 - それでも鉄道は好きだった
こうして私が運動部へ入部した事実は、望まぬ形ではあったものの人生で二回目の人と関わる大切な試みとなったのです。
実際に運動部、クラスサイドにも、鉄研サイドにも友人ができました。
私は中3になると鉄研にも顔を出し始めました。受験勉強ばかりで疲れてる中で、仲の良い友人と好きな話題で喋りたかったのです。
部員ではなかったですが、ついに鉄研の顧問にスカウトされました。顧問はすごい良い先生でしたが、受験期での正式入部はせずに、旅行への同行と、学芸展示会での鉄研の出し物の準備手伝いをするに留まりました。
これは、鉄道が好きなこと、鉄研には仲の良い友人がいること、一方で過去に多方面とトラブルを起こした学校社会的に避けられる人物がいること、この3つの事実に自分の中で折り合いをつけた結果でした。
コラム - 中学の頃の思い出
暗い葛藤だけを述べて来たので、この顔を出し始めた時期の思い出についても記します。
「ついに鉄研の顧問にスカウトされた」と記したが、これにはそれ相応の理由があります。
中3の最初地域のイベントにボランティア参加した際に、取りまとめているのがその顧問だった先生でした。
先生、その小学校同じ彼と、私の3人で暇な時間帯に話したんです。
愛知県と長野県を結ぶ飯田線というJRの路線があるんですけど、そこを走っていた引退した車両(もうこの会話の5年以上前に引退していました)の話になったんです。
塗装のレパートリーが多い車両だったんで「水色とか赤線とかいろんな色になってたやつですよね。」って言ったら、
「よく知ってるね!ぜひお待ちしてます。」って言われた流れがあります。
あと、中3の学芸展示会の話。
その頃鉄研部長になっていた小学校同じ彼は、展示会で劇をやると言い始めました。(!?)
グリーン車を鉄研のメンツでまとめて予約して車内で撮影を行ったものを流す計画を真面目に立てていました。(!?!?)
二個下に鉄道にガチすぎる後輩がいて、『熱海行湘南列車湯けむり殺人事件』という台本を一人で作って来て、部室に持ち込んで来ました。(!?!?!?)
上に記した通り、自分も準備は手伝うあれだったので会議に参加していました。
結局、東京〜香川と島根を結んでいる「サンライズ瀬戸・出雲」という寝台列車をモチーフに劇を計画する事になりました。
鉄研の人たちは横浜をでたら岡山までノンストップだと思っていたらしく、鉄道の知識があるお前が企画を見たほうがいいみたいなことを部長の彼に頼まれ、参加していました。
結局企画倒れして劇はやりませんでした!模型展示と旅行の発表を行いました。
前半の結び
こうして私は、なんやかんや鉄道という趣味とうまく付き合ってはいました。
今になって離れるべきと考えた理由を簡単に言えば、
私の好きだった鉄道はもうないに等しく、葛藤も考慮すれば
離れる事もアリかなと思ったからです。
中編ではそこについて深く掘り下げていきます!
長文お付き合い頂き、ありがとうございました。