百寸下の水の心
先日、仲間内との会話で自身の転職の話になった時、18年前、大阪から和歌山へ帰り、働くきっかけになった一冊の本を思い出した。
それは、中学生時代から親しんだ吉川英治の小説「宮本武蔵」。野心旺盛で、何事も人と比べる傾向が強かった20代の私に、大きな転機を与えることになった本だ。
「なぜ宮本武蔵が佐々木小次郎に勝ったのか」
読後、浮かんだ一つのテーマをもとに小説を遡りながら考えた時、武蔵と小次郎の生き方の根っこにある違いに行き着いた。
己のため、名誉のために剣を磨いた小次郎に対して、人のため、世のために精進した宮本武蔵の生き方。吉川氏はそれを小説の最後で次のように綴った。
波騒は世の常である。波にまかせて、泳ぎ上手に、雑魚は歌い雑魚は踊る。けれど、誰か知ろう、百寸下の水の心を。水のふかさを。 <吉川英治『宮本武蔵』より>
人それぞれの価値観はあるが、自分にとって「百寸下の水の心」とは何か。小さい頃から両親が口癖のように話していた言葉を思い出した。
「喜んでくれることやったらなんでもしたらええんや」
世の中のどの仕事も、行き着くのはここではないか。最終的に誰かを笑顔にするためにあるのではないか。配達のお兄さんも、汗を流し作物を作る農家も、飛び込み営業をするビジネスマンも。
自分の中にある「こうしなければならない」という、育ちすぎたオクラみたいな超硬い思考が崩れていった。
百寸下の水は普段見えないものであり、綴って表面化させることは少し矛盾するかも知れない。でも、備忘録として残しておこうと思う。今も迷った時、この原点を見つめ直すために。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?