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今日11月9日はなんの日?アメリカの探検家が初めてパンダをアメリカに連れ帰った日

はじめに

1936年、アメリカのファッションデザイナーから探検家に転身したルース・ハークネスは、初めて生きたジャイアントパンダをアメリカに連れてきて歴史に名を刻みました。

この驚くべき出来事はアメリカ国民を魅了し、野生動物の保護と国際関係における重要な瞬間となりました。

背景と中国への旅

ルース・ハークネスは、従来の尺度では経験豊富な探検家とは言えませんでした。

彼女がエキゾチックアニマル探検の世界に足を踏み入れたのは、個人的な悲劇がきっかけでした。

冒険家であり探検家であった彼女の夫、ビル・ハークネスは、ジャイアントパンダを捕獲するために中国へのミッションに乗り出しましたが、残念ながら目的を達成する前に咽頭癌のためにこの世を去りました。

亡き夫の夢を叶えようと決意したルースは、1930年代の女性としては特に大胆な行動をとりました。

探検が主に男性優位の分野であった時代、ルースは懐疑的な見方とロジスティクスの難題に直面しました。

それでも彼女は中国に向けて船出し、上海に到着してチームの編成を始めました。

彼女は中国系アメリカ人の探検家、クエンティン・ヤングとパートナーを組み、複雑な地形と現地の習慣をうまく操ることに尽力しました。

探検とパンダの仔の捕獲

鬱蒼とした竹林と険しい風景で知られる四川省の人里離れた山々に分け入り、ルースと彼女のチームは厳しい気象条件と困難な地形に立ち向かいました。

大規模なチームと精巧な装備に大きく依存したこれまでの探検とは異なり、ルースのアプローチはより控えめで、現地の環境を尊重したものでした。

数週間のトレッキングの後、探検隊は地元の猟師たちからパンダの目撃情報を得たという村にたどり着きました。

1936年11月9日、チームは生後9週間の子パンダに遭遇しました。

ルースは、パンダにとってより危険でストレスとなる成獣を捕獲するよりも、適切な世話ができる子パンダを捕獲することに決めました。

彼女はその子を中国語で 「ちょっとかわいい 」という意味のスーリン(苏琳)と名付けました。

幼いパンダのもろさを理解していたルースは、帰路の間、スーリン(苏琳)に粉ミルクとライスシリアルを混ぜて与えるなど、細心の注意を払いました。

スーリンをアメリカへ

スーリンをアメリカに運ぶのは、物流上の偉業でした。

ルースは、必要な許可証の確保や長い航海中のパンダの健康管理など、官僚的なハードルに直面しました。

彼女の献身的な努力はサンフランシスコに到着したときに実を結び、スー・リンはたちまちメディアでセンセーションを巻き起こしました。

アメリカでの反応

スー・リンの到着は、アメリカ全土に広く人々の関心と興奮を呼び起こしました。

新聞は一面トップで記事を掲載し、かわいいパンダの子供の写真は読者を魅了しました。

スーリンは最終的にシカゴのブルックフィールド動物園に収容され、パンダは何千人もの来園者を魅了し、動物園の入場者数を大幅に伸ばしました。

アメリカ人は、聞いたことはあっても生きているところを見たことのないこのエキゾチックな生き物に魅了されました。

パンダは国際的な陰謀と神秘的な東洋の魅力の象徴となりました。

また、スー・リンの存在は、野生動物保護への関心を高め、絶滅危惧種に対する意識を高めました。

遺産と影響

ルース・ハークネスの探検の成功は、当時の女性に対する社会の規範や期待に挑戦するものでした。

彼女の物語は、書籍や野生生物保護のさらなる探求にインスピレーションを与えました。

残念ながらスー・リンは1938年までしか生きられませんでしたが、パンダはすでにアメリカ文化に忘れがたい足跡を残していました。

この出来事は、将来の米中文化・動物学交流への道を開きました。

また、野生動物探検における倫理的配慮の必要性を浮き彫りにし、動物の捕獲、輸送、動物園での展示方法にも影響を与えました。

結論

ルース・ハークネスが1936年にスー・リンと出会い捕獲したことは、単なる動物学的な功績にとどまらず、文化の架け橋となり、アメリカの野生動物保護への情熱に火をつけた先駆的な事業でありました。

この出来事に対する当時のアメリカの一般の人々の熱狂的な反応があったことは、「一個人が自然界に対する社会の評価に大きな影響を与えうる」ということをしめしています。


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