見出し画像

写真に在る時間

撮った写真を見返す。
過ぎ去った日々がそこにあって、撮らなければ覚えていなかったようなささやかな出来事も思い出す。子どもたちが生まれてからの成長を記録し続けている家族の写真は唯一無二の宝物。

でも、最近は子どもたちの写真を見返すのがちょっとつらい。時間の経過がはっきりと子どもたちの成長に伴う変化として写っているから。それは妻や自分自身の変化よりも大きくて、1年間の、1日の、もう戻らない時間を切実に感じてしまうから。

いつの間にかしっかり自分の足で立ち、言葉をたくさん喋るようになり、抱っこをせがまなくなり、嘘をつくようになり、親よりも友達といることを選ぶようになり。

無事に成長してくれることが本当に何よりの願いであり祈りであり、喜ばしいことなのだけれど、どんどん手がかからなくなって離れていく寂しさは誤魔化すことができない。
こんなふうに思うことへの罪悪感があるし、子どもたちがしっかり自立していくように支えるのが親の役割だとも思っているから、本人たちにはもちろん言わないけれど。

もしかしたら、写真なんて撮らないほうが幸せなのかもしれないと思うことがある。たいして記憶力のないこの頭が覚えていられる程度の思い出だけ、それも時間が経てば忘れてしまうくらいの濃度だったら、きっとこんな余計なつらさを感じなくて済むのだろうな。 
実際、日々は慌ただしく生活をまわすのに手いっぱいで、いろいろなことを(ときに、覚えていたかったことでさえ)忘れていってしまうのだから。

これまで、ごく当たり前になんの疑いもなく写真を撮って残してきた。「撮らないほうが幸せかも」なんて思ったりしなかったし、何もしなければ流れて行ってしまう日常から、撮ることですくい上げてきた。
時間が過ぎていくことに対して人一倍臆病だから、今はつらさを感じてしまう。でも、こんなのは数多あるちょっとした生きづらさのひとつにすぎない。いつかさらに時間が経ったときには笑顔で懐かしむことができると信じて、これからも当たり前に撮り続けていくのだと思う。

子どもを撮る視点は、過去に親が自分を撮るときに感じた想い(それを聞いたことはなくて確信はないけれど)を追体験しているのかもしれないと時々感じる。子どもたちがいつか家族や子どもを持ったとしたら、写真を撮るときに僕と同じようなことを感じたりするだろうかと考える。

愛おしさと寂しさの狭間で今を写しながら、見えない過去や未来を強く意識する。時間は流れていくイメージがありながら、写真には自分のすべての時間が在るように思う。


写真について、まとまらないあれこれをいつも考えている。なぜ写真を撮るのかについて、これという答えは持っていなかった。どうやら自分はこうして考えることを必要としていて、写真を撮ることは時間や愛や感情についてを考えるためのツールのひとつなんだろうなと最近思う。
写真を撮っていて楽しいのは、そういう部分が刺激されるからなのかもしれない。

うまく言葉にできている気がしないけれど、ここのところ感じていた寂しさや靄がかかっていたものをすこし記すことができたかな…今はこれでいい。