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#39 地名に探る大岡山のセカイ

こんにちは、おおお知るまちプロジェクトです🍂

最近、秋雨の所為か急に冷え込むようになって季節の変わり目を実感する日々ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか☔

今度、「飛びまち」を開催するということで大岡山周辺の地図を眺めていたのですが、大岡山や緑がなど台地を想起させる地名が多くあることに気づきました。大岡山や緑が丘ならなんとなく由来はイメージできますが、千束や目黒、大田などはどのような経緯でこのような名前になったのでしょうか🔍

今回はそんな地名についていろいろと調べてみました📚

はじめに

改めて、地名っていいですよね。
場所を識別するだけなら「A県β市ア町11-1-1」とか、郵便番号みたいな記号でいいはずなのに、世界中で数えきれないほどの地名がつけられ日常の中で使われています。例えば、僕が今この記事を書いている場所は日本国東京都目黒区大岡山 と、4つの階層(国、都道府県、特別行政区、字丁目)で地名がつけられてます。

さて、なんとなく”あるもの”として認識している地名ですが、名前である以上いつかのタイミングで誰かが名付けたはずです。何かに名前を付けるときにはその人や社会の世界観が反映されます🌎
たとえば、谷や台地の江戸という都市の状態を反映して、「渋谷」「四谷」など谷の名前が地名になっていたりするのは有名な話ですよね。
さて、大岡山周辺の地名を名付けた人は名付けの際にどんなことを考えたのか、この土地に何を感じて名付けたのか、地名に現れる世界観を辿ってみましょう。

※本記事では由来として諸説あるものの中から筆者の好みで選んだ話も含まれますが、ご容赦ください。


時系列でみる地名

まずは時系列で資料などを追いかけながら大岡山周辺の歴史や地名、行政区分の成立について整理してみましょう。

1.律令制時代

日本の古代から中世にかけての政治体制である律令制についてまとめられた法典の一つである延喜式において、実は既に大岡山周辺の地名が記載されています。延喜式の編纂開始が905年、律令の制定が701年なことを考えるととても歴史を感じますよね。

大岡山周辺から蒲田のあたりまでにかけて、かつては荏原郡と呼ばれていたそうです。荏原郡がさらに荏原郷などの9つの郷に分かれていて、その中には現在も残る地名である千束郷大井郷三田(御田)郷などがあったようです。(田本郷、満田郷、覚志郷、桜田郷、木田郷などは今は地名には残っていないようです)

1000年前の日本はこのような行政区画でした

実はここら辺は1000年以上の歴史のある土地になっているんです。
そのころにはすでに今の洗足池のほとりにある千束八幡宮が宇佐八幡から分霊されて建立(860年ごろ)されていたようです。そして、洗足池もこの呼ばれ方ではなく、千束溜井という名前で呼ばれていました。
当時の千束溜井は現在の洗足池よりも下流側にとても長く伸びた湿地のような場所になっていたようで、ちょうど今の池上のあたりまで続いていました。

左上の濃い場所が洗足池、影のついてる場所が昔の千束溜井の範囲 洗足池-洗足風致協會創立60年記念誌より

溜井の命名を見ると当時から洗足池は吞川と並んでこの一帯を潤していた水がめとなっていたことが分かりますね。また、この地図を見ると、今の洗足流れのあるあたりはほとんど池か湿地のような場所となっていたことも想像できますね。

2.江戸期

律令制以降、関東周辺は基本的には京の朝廷から離れた田舎でしたが、江戸時代になると経済と政治の中心が東京(江戸)に移ったことで詳細な記録が多く残るようになります。

奈良時代に編纂された日本最古の地誌の一つ風土記をもとに、文化文政期に幕府の昌平坂学問所によって編纂された新編武蔵風土記稿には現在用いられているような地名の多くがみられます。
洗足池はまだ千束溜井の表記でしたが先述したような湿地帯が広がる形態ではなく、呑川との合流地点まで現在の洗足流れは形成されていたようです。
目黒碑文谷奥沢深沢石川(台)などの記載は見られ、現在はあまり使われていない名称ですが平町や大岡山、自由が丘、中根を含む地域の名称として衾村(ふすまむら)という記載も見られます。
目黒については領地や石高の都合で上目黒村、中目黒村、下目黒村とわかれて統治されており、現在の目黒区よりはだいぶ小さい範囲でした。
一帯の名称としては相変わらず荏原郡であり、幕府直轄領や旗本領、寺社領が入り乱れた地域でした。

江戸期の地図 新編武蔵風土記稿より

3.近代

明治維新によって廃藩置県が起こると全国的に地名の変更や再編が行われました。

多くの地名が行政区分で採用されなくなったことで混乱が起きないように旧地名や村名を△△町大字〇〇などのように大字(おおあざ)以降に併記するような慣例も生まれました。大字よりも小さな範囲の地名を小字として使用することもあり、町村制施行時の資料に東京府荏原郡碑衾(ひぶすま)町大字衾に含まれる小字のうちに平南大岡山・平北大岡山の表記がみられました。明治期の小字として登場しているということは恐らく大岡山という地名は江戸期から用いられていたのではないでしょうか。

4.現在

昭和7年の東京市再編によって荏原郡は世田谷区、荏原区、目黒区、品川区、大森区、蒲田区として東京市に組み込まれ、大岡山周辺部は大森区と目黒区の堺のあたりに位置することとなりました。同じころに緑が丘町と自由が丘町が町名として碑衾町大字衾の一部として生まれました。
その後、1943年に東京都制が施行され、1947年の地方自治法施行に伴う再編で大森区と蒲田区が大田区となり、ほとんど現在の状態となりました。

地名に反映される世界観

ここまで紹介したように、地名が付けられるきっかけは多岐にわたり、地名はそこに暮らす人のみならず、外部から訪れる人や統治する人も巻き込んで、対象となる地域へのイメージや序列、世界観を如実に表します。そんな地名に表現される世界観をたどってみましょう。

1.地形からの命名

特徴的な地形は人の関心を集め、地域を象徴するものとして地名に使われます。

大岡山周辺には呑川や九品仏川、清水窪流れに洗足流れ、かつては貉窪など多くの川や流れがあります。
九品仏川はかつて「丑川」と呼ばれていました。由来は単純なもので、”牛が川に落ちたから”らしいですが、なんと吞川の由来の一つにも”牛が流れに呑まれたから”というのがあります。”地を吞むような暴れ川”という説もありますが面白いので、牛つながりだと素敵ですね。そして、科学大(東工大)のキャンパスのある石川(台)の由来も、丑川(うしかわ)がなまって石川(いしかわ)になったそうです。あまりイメージはないですが、実は牛にゆかりのある土地なんです。牛といえばかつては農耕用でしょうか、洗足池や呑川の豊かな水を背景に牛が畑や田んぼを耕している。そんな風景が浮かんできませんか?

こんな様子が見られたかもしれません

川や水に関係する地名といえば「沢」が含まれるものも多いですね。「奥沢」や「深沢」、「駒沢」などは吞川の支流が湧いていたことから名づけられました。実際にどんな場所か見てみると、、、見事に谷筋になっているのが分かりますね。奥沢神社では水害と結び付けられることも多い大蛇がまつられているのですが、かつて大蛇が暴れていたかもしれない一帯も護岸や川の暗渠化に伴いめったに水害の発生しない場所になりました。

標高を陰影で表した地図 濃い部分が標高が低い、青い線は谷筋や旧河道

”川”が流れることで台地は削り取られて谷が生まれます。台地の縁から降りる坂地を根といい、吞川によって生まれたそこは「中根」と呼ばれるようになり、残った台地は緑豊かだったことから「緑が丘」と呼ばれるようになりました。谷の終端は窪と呼ばれ、水が湧き出る神秘的な場所となります。清水窪は”とても冷たくきれいな水が湧き出る”ことから、かつては水がとても冷たかったため洗足池で温めてそれより下流で使えるようにしたとか。今は名前として残っていませんが「貉窪」も洗足池の支流の一つです。かつては貉(むじな:タヌキとアナグマを区別しない表現)も多く住んでいたようですが今は見る影もありません。

大岡山千束地区の”水”に関することはこちらの記事に詳しく載っています!!


さて、そんな谷や流れや窪や川を経由して集まって出来た池が洗足池です。といっても「洗足」という表記は比較的最近の書き方で、もともとは千束池、あるいは千束溜井であったということはすでにお話ししました。「千束」の由来については次の章でお話ししますので少々お待ちください。
そんな「千束池」は紹介した地図のようにかつてはかなり南のほうまで伸びており、そのことから「池上」と名前が付き、その地に赴任した御家人が池上氏を名乗り、その地で開かれたお寺が池上寺となりました。

2.象徴的なものからの命名

その地に独特な風景やできごと等も地域の象徴になり、地名の由来として用いられます。

洗足池はかつてこの一帯の農業や生活のための灌漑拠点、「千束溜井」として整備されました。「千束」という地名は”灌漑拠点としての稲千束分の免税が施された”から、とか”稲がいっぱい(千束分)とれる”からなどの由来があるようです。ちなみに余談ですが、浅草のほうにある千束という地名は寺領だったことから千僧供領(せんぞうくりょう)と呼ばれていたことが由来らしいです。
時代を経て平安時代末期になると鎌倉幕府初代の源頼朝が池畔に陣を張り、その際に池に移る月のような美しい名馬「池月」を手に入れたことから、池畔の千束八幡宮は「旗揚げ八幡」ともよばれ、池月の名は1928~30の間、大井町線池月駅(現北千束駅)として残りました。
 鎌倉時代に入り、池の南に池上本門寺が建立され、日蓮宗の一大拠点となったことで日蓮上人が池上氏へ身を寄せる際の旅路で足を洗うために立ち寄ったことから同じ読みの「洗足」という地名でも呼ばれるようになりました。日蓮上人の話はほかにも「袈裟掛け松」としても残っています。
 生活の拠点として尊重され、様々な有名人も訪れて池の美しさやそこに宿る力にあやかる。洗足池はそんな場所だったようです。

池月像と千束八幡宮


特産品もまた地域を象徴するものです。松阪と聞けば牛肉のことが思い浮かぶ人も多いんじゃないでしょうか。この例は地名から特産品が想起されるものですが、逆に特産品が地名となることもあるようです。

目黒は馬畔(めくろ)ともかつて表記していたようで、意味はそのまま馬の畔、つまり”馬の牧場”だったそうです。そのことを知ってから地図を見てみると、「駒沢」や「駒場」、「駒留」、「下馬」、「上馬」など、馬に関連する地名はこのあたりに多いのがわかります。馬や牛など、家畜の多い地域だったのでしょうか。
 実は、科学大(東工大)のあるあたりから北の方の大字である衾(ふすま)は馬の飼料としても用いられていた麩(ふすま:麦の外皮、米でいうぬか)の産地として知られていたことからつけられたようです。

ほかにも特産品や特徴的な風景が由来となった地名は周辺にいくつかあり、

大森:広大な森(杜)があったことから。
蒲田:ガマ(蒲)の湿地(田)があったことから。
大田:大森+蒲田
大井:井草が自生していたことから。
荏原:荏胡麻が特産品だったから。朝廷に献上していたそう。
碑文谷:桧物(ひもの:ヒノキの工作物)の産地、桧物谷(ひものや)から。
自由が丘:自由ヶ丘学園(1927年創立)が由来、学園通りなども。実は丘ではなく谷。
九品仏:九体の阿弥陀如来像が祀られている、九品仏山浄真寺から。
八雲:近隣の氷川神社に祀られているスサノオノミコトの読んだとされる和歌から。

などがあります。

実際に行ってみた

さて、地名の由来をいろいろと調べたうえで実際に現地に行ってその雰囲気に浸ってみましょう。

大岡山
読んで字のごとく岡、山のような地形です。北口商店街と重なるようにある尾根・岡とそこへ延びる坂は大岡山周辺を象徴する風景ですね。

大岡山駅のわきからロータリーのほうまで伸びる坂

清水窪湧水
住宅街の中に突然現れるくぼ地は神秘的な雰囲気です。現在こそ地上の舗装などによって水量が少なくなりポンプで循環させていますが潤いのある雰囲気はかつてのままでしょう。

弁財天の祭礼をされている様子、カメが4匹ほど日向ぼっこをしていました

清水窪流れ
大部分は暗渠となっていますが、洗足池にほど近い場所ではちょろちょろと水が流れる豊かな空間を残しています。

子ども広場わきの橋の上から

緑が丘・中根
今は呑川が暗渠となっている区間ですが、暗渠の上の緑道へ落ち込むような地形や静かな雰囲気、坂の上の明るい台地は残っています。

呑川緑道の南端付近

洗足池
いまは都心の憩いの場として、むかしは生活基盤として、とらえられ方を変えながら大事にされ、形を変えながら1000年以上地域を見守ってきた美しい場所ですね。

向かいに水生植物園や妙福寺が見える

池上
吞川も三面護岸となっていて、こんなにもまちが広がっている風景からはかつてここまで洗足池が広がっていたということが信じられません。

池上本門寺総門 ここまで水が来ていたんでしょうか


おわりに

ここまで地名やそこから想起されるものを追いながら大岡山周辺に投影された様々な世界観をたどってきました。いかがだったでしょうか?
地名という日常に浸透しているものでも掘り起こしてみると様々なものが見えてきますね。

時には地名をただの記号としてとらえるだけでなく、川に呑まれてしまった牛のことや谷間のくぼ地に湧水を見つけた人、松に袈裟をかけて足を洗って休むお坊さん、坂を見上げて大岡山と名付けた人のことも思い出してみてください


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