自分の中で見えたもの

自分は人に勘違いされやすい。

ちょっと前もある相談を受けたのだが、話を聞く限り相談者の弱さや行動が原因の一つでもあると感じたので、その人のためを思ってアドバイスも含めて話をしたのです。

しかしその人は、自分の言ったことが理解してもらえず、かえって傷ついたと別の方に相談をしたとのこと。

別の相談者は、その人のためという観点は捨てて、その問題を解決するためのアクションを起こし、相談者も納得したとのこと。

この対応の違いに自分がよく人から勘違いされる理由が見えた気がしたのだが、逆にモヤモヤを抱える原因にもなった。

今回の件は、とりあえずの問題は解決をし、相談者もまた元気を取り戻したので結果は良かったのだが、私はどうしても相談者は今回の件で自分のダメだった点に気づき改めることに繋がったのか?と考えてしまった。


いや、でも自分の中で答えは出そうだ。
人様の性格など変えられるはずもないということは百も承知。だから自分がアドバイスする時につい思ってしまう『その人のために』と言うのは、人様の性格のダメ出しであったり、その人の性格とまでは言わないが、何かを変えようとする話だからうまくいかないのだろう。
なので『その人のために』という考えは控えめにするように気をつけた方が良さそうだ。

と結論付けようとしているのだが、やはり本当にこれで良いのか?と思う自分もいる。しばらく一人でモヤモヤしそうだ。

昭和、平成初期を過ごしてきた自分は、理不尽な経験も今となっては良い学びだったと思える。
グサっとえぐられるような心許ない言われ方も、良い学びだったと思える。
そういった適度に理不尽な経験は、当時はストレスであったが色々と考える良いきっかけだった。

今『不適切にもほどがある』というドラマが話題だが、当時自分が経験してきた理不尽な扱いは、今はアウトか濃いグレーなのだろう。
となると現代の人はどんなきっかけで学ぶのだろうか。学びの意欲が高い人は自ら学ぶだろう。学びの意欲が低い人は、自分の至らなさに気づくことができるのだろうか?
私は理不尽な経験を経て学べたことも多かった。私自身は学びの意欲は高くなかったが、それでも今も社会人として生きていられるのは、当時のそういった経験があったからこそだ。

モヤモヤは消えない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?