「人に嫌われたくない」から少し解放された時の話
少し前まで、私は人に嫌われたくないあまり、色々深く考えて生きていたのだと思う。
ここでいう私が用いる”人”というのは、「私が好きな人(大切な人)」のことである。
なぜその定義になったのかというと、話は小学生の頃。
私はみんなでわいわい楽しむことが好きで、平和主義かつ博愛主義だったことから、クラスメート、学校の先生、すれ違う人、全ての人に嫌われたくないと考えていた。しかしそれは当然無理な話で、中には私のことが苦手だという人も存在し、たまにその話が耳に入ってきた。聞こえた時に”悲しいなぁ”とは思ったものの、正直そこまでダメージはない。あくまでほんの一部の人の会話であったし、私の周りには大切な友人たちがいてくれた。その時、自分が本当に恐れているのは「人」に嫌われることではないことに気がついた。
もしも私の大切な友達に嫌われてしまったら
楽しい瞬間を共有できるこの関係が崩れてしまったら
私が好意を寄せている人、心を許している人に嫌われてしまい否定されたら、他のどんな人に陰口を言われるよりも嫌われるよりも、苦しく、悲しいのである。
そんなわけで、少し前までの私は、気楽に話せるはずの友達との会話も気を張って少し取り繕っていたり、あまり自分の意見を言わずふんわりと肯定するだけだったように思う。友達のボケにも、どこまでツッコんでいいのか分からない。この言葉は傷付かないだろうか。大丈夫だろうか。
そんなぎこちなさとじんわりと伝わる緊張感は、きっと相手にも伝わっていたのだろう。私だって、自分に対して心を開いていない人とはノリよく会話をすることもふざけることも少し遠慮をしてしまうし、一緒にいても楽しくない。
そう、つまりこの時の私は誰にも心を開いていない状態だったのだ。
しかし最近になって、私は突然この荷物を下ろすことに成功した。羽が生えたように体が、というか心が軽くなった。
「友達って私が思うほどそんな簡単にいなくならないのでは???」
と気がついたのだ。
もしも私が友達に「それはない(笑)」と話をツッコまれたとする。
言い方や状況にもよるが、私はこれに対し特に嫌悪感や悲しみを抱くこともなく、むしろ笑って話を続けるだろう。
逆に私が渾身のボケをかましたにも関わらず、「うんうん、そうだよねっ」とやんわり肯定される方が調子が狂う。
もちろんこの受け取り方には個人差があるだろうし、そこの見極め(この人にはここまでの距離感や強さは大丈夫かな、とか)は大切になってくるだろう。
しかし私が嫌われたくない人、すなわち愛すべき友人たちは、数年を共に過ごし気心知れている人たちなのである。何を今更怖がることがあるのだろうか。
嫌われるかもしれない…と恐れ自分を隠し接する方が、私がその友人たちを信頼していないことになるのではないだろうか。
そう考えたら、今まで重く沈んでいたものがすっと軽くなり、その次友人と会った時には深く考えすぎずに、ただ楽しく時間を過ごすことができたのだ。
”親しき仲にも礼儀あり”なので、そこは忘れずにいたい。
けれど、「嫌われるかもしれない」と恐れ過度に自分を隠すことは、自分を好きだと言ってくれている人に失礼であるし、自分が彼女たちを信頼していないことになる。
もっと気楽に生きてみてもいいのかもしれない。