SF西遊記・はじまりの章・シーン2
そこはシン…と静まりかえった汗臭い畳の広間だ。
学校の体育館とはまた別個の実技場、柔道や剣道の部活動の実習用にあつらえられた武道館には人影がぽつんとひとつだけ、何をするでもなしにたたずんでいた。
さえないくたびれた感じの中年の男だ。
みずからが立つその場よりもむしろこの建物の外で何かしらの気配がするのに、つとその視線を向ける。
校舎とは反対側の壁越しに低いうめきと、あらっぽいドタバタとした物音がして、すぐにもぱったりと途絶える。
それにより首尾よくことが収まったのを察する男は、口元にかすかな笑みを浮かべてうそぶくように言ってやる。
「はい、ご愁傷様♡ まずはお一人様、身柄を確保っと…! まったくガキってのはチョロいもんだな? そしてそれにもまして、女ってのはつくづくコワイもんだ…ふん!」
手元に持っていた紙切れに皮肉っぽく苦めた目線を落としておいて、しまいはそれを無造作に破り捨てるおじさんだ。
そうしてまた別の方向から来る気配に頭を巡らせた。
苦笑いのままで、またうそぶいてくれる。
「はいはい、本日二人目の犠牲者、もとい、哀れなガキんちょのご登場っと…! それじゃこの俺もさっさとお役目済ましてバックれるとするか…」
玄関口から大きな木製の扉を開けて入ってくる人影と仁王立ちして向き合った。
相手は大柄でふとっちょだが、まだ若い学生であるとこの格好からわかる。
もとからよく見知った顔であることもあり、そのあまりかんばしくないような微妙な顔つきしたおデブの学生くんを茶化すような言葉を発した。
「おう、やっとのご到着か? わざわざ部活を休みにして道場開けておいたんだから、もったいつけずにさっさとくりゃいいものを! おかげでせんせい待ちくたびれちゃったぞ? 大将!!」
せいぜい冷やかし混じりに言ってやるのに、やや仏頂面した相手は返す言葉もどこかとげがあった。
「大将! じゃねえよ? いきなり呼びつけておいて、おまけになんだよ、せんせい、学校やめるって…! おれぜんぜん聞いてないんだけど? 部活の顧問がいきなりとんずらなんてねえだろうさ…!」
「ふん、だからこうして挨拶してやってるんだろうさ? そもそもこの俺ごときがいなくなったところで他にもやるヤツはいくらだっている! 県内でも屈指のもさぞろいの強豪柔道部だからな? 泣き言は聞きたくない。文句なら構わないが、後のことなんて心配するだけ野暮ってもんだぞ、この俺も、おまえさんもな…!」
「なに言ってんだよ? おれは礼を言いに来たんだからな! これまでずっと世話になった顧問のおやじさんに!! てかどうしてこんな急にやめちまうんだよ? なんかヤバいことでもやらかしたのか? さてはエロおやじにありがちな不祥事的な??」
暗い顔つきながら気丈に軽口叩いてくれる。
真顔の相手に精一杯の強がりと気遣いを感じるオヤジだ。不覚にも目頭が熱くなりかける。
だが口元の苦笑いを一層に強めて言ってやった。
現実はそんなに甘いもんじゃないと…!
「はっ、それはこれからやるんだよ…! いや、礼だなんてずいぶんとしおらしいな? なんだって気にもしないで笑い飛ばすおまえさんが! ならこれも笑い飛ばしてくれよ、いや、ま、無理か? そうだな、この俺のこと、恨んでくれても構わないさ。今はこうして先生と生徒の立場だが、もし次に会うことがあれば、その時は…な!」
「?? ほんとになに言ってんだよ? それにどうしてこんな人気のないところで、おれだけ呼び出したんだ? やめるならやめるってきちんとみんなの前でさ…」
ひょっとすれば泣き出すんじゃないかと思うくらいな沈んだ表情のでぶっちょくんに、負けず劣らずデブででかい肩をすくめる顧問のオヤジはせいぜいニヒルな言い回しだ。
「そいつは無理だな! あかの他人を巻き込んじまうわけにはいかないだろ? なに、おまえさんもすぐにわかるさ、こいつがお互いどうにも皮肉な巡り合わせだったってことにな。俺ははなから教師だなんて向いてなかったんだ…!」
「せんせい!!」
くるりと背中を向けるのに、背後から呼び止める教え子を振り向くことはなかった。スッ…と、ただ軽くだけ片手を上げてやるオヤジさんだ。
あばよ…! とばかり渋く決めてやったつもりなのだが、その後に来たわりかし冷静な指摘にはちょっとズッコケてしまった。
「なんでそっちに行くんだよ? 玄関こっちだぜ?? あとその土足! 靴はいたまま道場に上がり込むなんてマナー違反だろ!!」
「あっ…! いま気にする? いいや、いいんだよ。俺はもう教師じゃないんだ。むしろ不審者ってもんでな? それにマナー違反のヤツらならもうじきここにもっとたくさん…達者でな! あばよっ、このかわいい愛弟子め。だが今日までだ、明日からおまえはかわいげなんておよそみじんもないブタのバケモノ、そうだ、猪八戒なんだからな!!」
「ちょっ…はっかい?? なんだよ、なに言ってんだよ、せんせい!」
振り返らないと決めたはずなのに、教え子の叫びには思わず半身をさらしてしまう元教師にして部活の顧問だ。
おまけに不敵な笑みを浮かべた横顔で言うつもりもなかったセリフを口走ってしまった。それが愛すべき教え子への精一杯の餞別だとばかりに…!
「だからもう先生じゃねえんだよ、この俺はな、たった今から泣く子も黙る牛魔王さまだ…! おまえの敵だよ…はははっ、愛してるぜっ、達者でな!!」
「なっ…!?」
呆然と立ち尽くす教え子を後に足早に道場の外へと、裏手の山へと消えていく不審者だ。なんやかんや言いながらよくなついていた生徒が追ってくることはないのは知っていた。物騒な気配と物音が背中にまとわりつく。
「あばよ…!」
悲鳴がしたのかも知れないが、もう二度と振り返るまいと決めていたおやじは厳しい表情で獣道をひたすら駆け上がっていった…!