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上京

東京にある国公立校で自分にとって一番少ない勉強量で入れそうだからと選んだ学校に入学した僕は、とんでもなく優秀な人が揃った読書サークル、社会思想研究会(略して社思研と呼ばれた)に入ったものの、圧倒的に落ちこぼれだった。

しかし強烈な自負を持っていて、それが背伸びしてでてもついていった理由だった。
当時の最先端から60年代くらいまで遡るサブカルチャーやカウンターカルチャーへの尽きない興味と深い探究を続けていたことがそれである。
ポピュラー音楽を軸に、映画、舞台、アート、思想等に至るまで、本当に貪欲に吸収した。例えば、映画なら高校生の頃に創成期の頃のものまで観てきている。
20世紀の文化において1960年代は特別な時期だったから、音楽ならまずはこのあたりまで掘り進めるのも順当とは言えると思う。

ポピュラー音楽に関しては、大阪に行った年子の妹と中高の頃から競い合うように追及した結果、僕が大学に入ってしばらくしてから以降、僕らきょうだいはリスナーとしては多分当時の日本のトップ層にいたはずだ。
だいたいにおいて、女性ならではの感受性で見極める妹の方が早かったが、東京でお互いに連絡を取り合いながらも、独自に様々なものを追い求めた僕は次第に自分なりの評価軸を得ていく。

社思研にも音楽、特にロックを愛好されていた先輩がおられた。稲葉振一郎さんと並ぶ不動のツートップの一人で、誰でも知ってる学校に就職された方がその人である。
仮にSさんとでもしておこうか。

さて、ここから先は僕の妄想として受け止めてもらいたい。
なぜなら、到底届かない知性をもったSさんにとって、僕と張り合うなどまったくどうでもよいことだったろうし、彼に一方的に意識をつのらせていた可能性が大だからである。

Sさんは当時U2を評価されていた記憶がある。
しかし僕はU2については世界的にブレイクしてスタジアム級のバンドになる前に、初来日公演を三重県の長島町から愛知県の瀬戸市まで見にいっていたくらいのファンではあったが、次々とやってくる新しいジャンルやアーティストを追いかけていたため、彼らの評価を決定づけた次作を発表した頃にはとうに興味を失っていた、というくらいの軋轢があった。

見えない確執が僕とSさんとの間で発生し明瞭になるのがこうしたケースで、彼にしてみれば次々と流行を追いかける軽薄なヤツだということになろうし、僕にはいつまでもU2なんぞを追いかける鈍臭い趣味の持ち主という蔑視すらあり、こればかりは和解のしようがない。

Sさんとの確執が生じた大きな要因に、当時はまだ情報源として大きな存在だった音楽雑誌の違いが大きかったと思う。
ずっと愛読していた雑誌の方向性の違いが生んだ方向性の違いだ。

Sさんは『ロッキングオン』、僕は『ミュージックマガジン』と妹経由で購読するようになったビジュアル系の専門誌になる遥か以前の『フールズメイト』で、知っている人は笑うところだが、これではもう絶対に相容れない同士にならざるを得なくならざるを得なかった。

特にロッキングオンとミュージックマガジン(以降は略してマガジンとさせていただく)は、互いに渋谷陽一と中村とうようという名物編集長が第一線でご活躍されていた頃で、お互いののことは口にもしないという間柄があり、それぞれの雑誌のファンの間にまで同様の深刻な亀裂が生じていた。
それが社思研の中で見えない対立として発生していたのだった。

僕が最初に買ったマガジンは、当時のオールドスクールヒップホップを記録した映画『ワイルド・スタイル』の特集号であった。ロンドン帰りの新進気鋭のDJにして既にカリスマとして頭角を現しつつあった藤原ヒロシさんが、札束ではなく腕で勝負することにプライドを持っていることを話しておられた。
ちなみに同号には、日本で初めてソニック・ユースを紹介した記事が掲載されてもいた。

ヒップホップは男の子の世界だから、ここは妹もついてはこれない。
海の向こうからどんどんやってくる新しい波など関係なく、Sさんは真面目なロック青年を続けていた。
僕に言わせれば、小学生にしてブレイク前のプリンスのファンであった妹を見ていたから、白人のやるロックしか聴かないSさんの視野の狭い生真面目さには余計に呆れざるを得ない。

ちょっと脱線するが、後年ジャマイカだけでなくアメリカ大陸全土をも熱狂させたレゲエDJのシャバ・ランクスの日本ツアーに関わったことがある。
ロッキングオンとマガジンにも当然取材を要請したが、前者には歯牙にもかけられず、後者からは取材OKとされたものの、やってきたのが後に編集長となり長期政権を築いた高橋修氏で、なんだか本質とは関係ないことを訊ねて帰っていった記憶がある。マガジンも堕ちたものだと思ったが、まぁ取材に来るだけはマシかと判断せざるを得なかった。

雑誌媒体が衰退し始めた頃に、ロッキングオンはサマーフェスを成功させ、そこから主な収益を得ることで大いに儲けた。
ただし、それも新型コロナの時代のビジネスモデルとしてはもはや過去のものとなってしまったが。

マガジンは高橋編集長の路線で方向性が定まらず、中村とうようさんがお亡くなりになられてからは、よくわからない雑誌になっていったが、ストリーミング時代の今は、シーンのよき解説書として熱意ある若い子たちには役に立つ媒体として生き残っている印象がある。どうしてもストリーミングだけでは深掘りできないからだ。
こちらは21世紀のシーンにそれなりにフィットしている。

時代を反映した栄枯盛衰を感じさせる両者の今の立ち位置ではある。

話を戻すと、大学に入ってからの僕らきょうだいがトップ層にいたと言いうるのは、彼女のことは伏せるが、まだハナタラシ時代の凶暴さで鳴らしたボアダムスの楽屋に出入りするようになったり、ロリポップソニックからフリッパーズギターに改名し、メジャーデビューを発表した六本木インクスティックでのライブに居合わせたりという僕のエピソードでご理解いただけるものと思う。
多分そんなヤツは僕しかいないはずだ。

これは、小山田くんも小沢くんも、妹と仲の良かったカジくんも、石野くんやピエールくんも、みんな愛読していたフールズメイトの影響だ。

マガジンの影響でいうならば、じゃがたらのメンバーだった故篠田昌已さんの知古を得ることとなり、その気さくで生意気盛りの僕にでさえ気配りを忘れないお人柄に魅了されたものだ。

篠田さんは、当時のマガジンの主要な執筆者の一人であり、ユニットA-Muzikを主宰していた竹田賢一さんの紹介でお知り合いになることができたのだから、これはマガジンなしではあり得なかった出会いだったことは間違いない。

ちなみにA-Muzikの唯一のアルバムは80年代における名盤中の名盤である。レギュラーメンバーだった篠田さんはもちろん坂本龍一も客演したりと、参加していたミュージシャンたちもとても豪華なのになぜか知られていないのは、政治的な主張を真っ向から音楽に取り入れていて、ただ単純に音楽だけの知識では理解できなかったからだと思われる。

小学生の頃の金大中事件あたりから、韓国の同時代史をうっすらと追いかけていた僕でも、このアルバムで初めて知ることや学んだことは多かった。

たとえば韓国の光州事件で政府に抗した人民への連帯を示す『プリパ』の演奏でも聴くとよい。
その切迫した名演には、今の香港やミャンマーでの抵抗運動にもまっすぐつながる、時代を超えた存在感が確実に宿っている。

(当時の全斗煥軍事独裁政権を支持していたのが、アメリカであり日本である。両国は暗殺された朴正煕大統領をはじめ、戦後続いた韓国の独裁政権を一貫して支持してきた。文在寅氏が手をつけようとして今でも諦めていないのが、こうした過去をきちんと省みた上で精算することで、日韓関係の政治的な行き違いは日本に責任があるとするのが、歴史的な経緯を踏まえた上での僕の判断だ)

篠田さんとの関係も含めると、業界人でもない只のリスナーでそうした経験をしてきたのは、日本でも僕一人だと自負と気負いを誇っても、若い身空であれば当然というものだ。

学内で活動していたパパタラフマラを知ったのは、フールズメイトの告知欄であった。連絡を取り事務所に訪ねて経緯を話すとたいそう驚かれた。

幾度も役者をやるよう説得されたが、レコード屋巡りや映画や舞台、アートを観に行くのに忙しくしていた僕はそれを悉く拒否して、大道具担当として結構楽しく取り組んでいた。

主宰する小池博史さんと美術担当の松島誠さんがラフなデザインで提案する各種のオブジェを創るのが我々大道具の役目。
飛ぶ鳥を落とす勢いだったセゾングループが運営する、今は亡き池袋の西武美術館で開催されたパパタラフマラのオブジェを飾った展覧会では、入ってすぐに僕がイチから一人で創り上げたものが展示されて随分誇らしい気持ちになってものだ。
残念だったのは、やはり僕が辞めてからすぐに決まったパリ公演に行けなかったことに尽きる。
演目のクライマックスでの仕掛け担当であり、大道具担当としては既にリーダー格だっただけに、そこに無念さを感じても許してもらえるだろう。

今は南砺市に属する富山県利賀村での国際演劇祭には僕も参加した。

夜通しで仕込みをしていると、ライトにたくさんの虫たちが群がってくる。
珍しいクワガタを中心に一人盛り上がっていたのは楽しい思い出だ。
日が登る頃にはみなさんお休みになっておられたが、子どもの頃から虫取りに尋常ならざる熱意を持っていた僕は、一人森に入って更なる収穫を得た。
ブヨに刺されぱんぱんに腫れた両足と引き換えにして。

長々と書いてきたが、これらの経験があった故に、僕は社思研に居残る図太さを獲得くしてきたことは間違いない。

しかし、Sさんとの確執は当然ながら続いていて、それが思わぬところで表面化した時のことを、僕は楽しい思い出として未だに鮮明に覚えている。

事件が起こったのは冬のある日、メンバーで鍋をつついていた時だった。

僕はいくらお腹が空いていても食い出すとすぐに腹が満たされるから、鍋の肉は煮えると遠慮なく次々と食べる。どうせすぐに胃袋が一杯になって食えなくなり、それでもなお十分な肉の量が残っているのだから、結果的には肉の配分は平等になるというのが、自分なりに根拠のある主張だった。
しかし、同じ鍋をつつく皆にはそんな理屈が通るはずもない。
案の定、Sさんがマナー違反を指摘してきた。
僕に言わせれば、上記の自分勝手ともいえる理屈で問題はないはずなのだ。

ロッキングオンを読むようなのはコレだからねえと心の中で独りごちた。
多分、お互いに納得できず憮然とした顔をしていたはずだ。
もっとも、僕の食い方は後に妹からも積年の恨みとして怒られたくらいだから、母は一体どんな食事マナーを僕に教えてくれたのかという話でもあるのだが。

個性豊かな人たちと出会えた僕は、幸せな学生時代を過ごしたと思う。

最後にA-Muzikのプリパを貼っておきます。
メドレーの最後、3分47秒からがプリパの演奏です。

https://youtu.be/m6959htBIaU

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