普遍的な価値について探る旅
母が日曜日に通っていて、極度に調子が悪い時は無理だが今は僕が行く日本基督教団桑名教会では、毎週水曜日に聖書の勉強会をやっている。
普段の礼拝ではほぼ新約聖書からの逸話を取り上げるが、この勉強会では旧約聖書の基本的なところを読んでいく。
ずっと『出エジプト記』を取り上げていて、これは旧約のハイライトとすら言える話ではあるんだけど、エジプトで奴隷として働かされながらも食住はきちんと保証されていたユダヤの民は、どことも知れない約束の地を目指すモーゼに文句ばかりたれていることが、ちょっとでも読めば誰にもわかるはず。
そんなユダヤの民衆をモーゼはなだめすかし励まして大変な思いをしていて、そのあたりは読まないとわからない面白みがある。
食うものがなくなった、豊かなエジプトに帰りたいと人々が言い出して聞かなくなってしまい、モーゼは神に食べ物が必要との思いで祈る。
するとマナと呼ばれるパンのようなものが天から降ってきて、食べ物には不自由しなくなるのだが、今度はいつも同じものばかり食わされて飽きたと文句が出る始末。
そういう信仰とは未だ無縁の有象無象の民を引き連れて行くモーゼの苦労はいかばかりかと想像せざるを得ない。
旧約聖書は神話と信仰と歴史が混ざり合ったものだが、『出エジプト記』という全体の要となっている逸話であっても、こうしたユダヤ教には不都合と言えるようなこともきちんと書かれているから、それなりに事実だったんだろうと思わせる。
今週からの聖書の勉強会は、『ルツ記』を取り上げると聞かされ、これは行ける限り行きたいと思っている。
オリエントの大国に比べたら弱小極まりない古代ユダヤの民のおよそ千年に及ぶ物語は波乱に満ちていて、そのおよそは雄々しく勇ましくて故に一団となって戦ったり、ようやく平和を手にしたら途端に信仰を離れて腐敗したりとそんな話ばかりが続くが、『ルツ記』は例外的に美談として終始して、もちろんハッピーエンドで終わる。
この逸話が興味深いのは、異教徒の女性が主人公というところで、血縁の系譜を重んじる父系社会の古代ユダヤの記録である旧約聖書であるにもかかわらず、ルツの系譜の後に有名なダビデ王やその子ソロモンに繋がると明記されている。
更に新約聖書では、遠く歴史を降ってイエスまでルツの血縁はつながると書く。
要するに『ルツ記』によれば、ユダヤ教はユダヤの民だけのものという通説はひっくり返ってしまうし、キリスト教はユダヤに留まらない普遍性があったことを『ルツ記』に見出だす。
珍しい女性が主人公となる話であり、故にと言ってもいいと思うが血生臭いエピソードは皆無なので、読後感も晴れやかで気分がよく、それでいて宗教的に極めて重要な部分を成す。
文学として読まれてきた『ヨブ記』は、オリエントのどこかにあった話をユダヤ流にアレンジしたものとする説がある。
旧約聖書全体から見て明らかに異質なので、僕はそちらに賛同している。
もちろん『ヨブ記』はそれだけでも読む価値がある全人類の遺産であることは言うまでもない。