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とにかく音楽に夢中

カルチャー・クラブの『君は完璧さ』が1982年、ニュー・オーダーの『ブルー・マンデー』がその翌年。
当時の英国のクラブから、あるいは自主製作レーベルからリリースされた曲がヒットチャートを駆け上り、今も評価され続ける名曲となる。

僕が高校に入った頃はまさにそんな時代で、それまで普通にラジオから流れるヒット曲を聴いているだけだったのが、自然な流れで英国のインディペンデントなバンドやユニットに興味を持ちはじめた。

『君は完璧さ』の間奏に差し込まれるレゲエダブパートで、初めてそのカッコよさを知ったのは僕だけではないと思う。
そこからUKのレゲエについて知り、当時最強のリズム・セクションだったスライ&ロビーまで行き着く。

マイケル・ジャクソンは『スリラー』だけなら、それほど魅力的でもなかった。CMで流れていた一作前の『今夜はドントストップ』はめちゃくちゃカッコよかったのに…

米国の音楽なら、後にカレッジ・チャートをチェックしていてそれで充分だった。そこでは早々にREMにも出会えた。

ポストパンクとも言える状況で、誰もが何をやってもいいんだという価値観は拡散する一方。
ヒット曲からとりあえず離れて、英国からやってくる新しい音楽に興味を持つようになるのはもう必然だった。

米国のロックはダサいにもほどがあったが、英国で新しいことをやろうとしている人たちは、皆それぞれに個性的なファッションに身をつつんでいて、坊主頭をやめて髪形を気にするようになり、洋服も自分で選ぶようになった僕には、まさに彼らは教科書そのものだった。

僕にとって最初のアイドルだったのは、ジャパンという美形なメンバーたちが更にお化粧をして、ジャンル分けがなかなか難しい音楽をやっていたグループだった。

日本でXが異常なまでの人気となり、ビジュアル系という言葉が定着するずっと前に、いかにもヒット狙いのあざとさばかりの日本のお化粧バンドとはまったく異なり、坂本龍一とも交流があったように常に革新的な音楽をジャパンはやっていた。

彼らの解散ツアーの最終日は名古屋市公会堂だったが、その場に居合わせた記憶はなかなか忘れられるものではない。

フロントマンのデビット・シルビアンの弟であり、ドラムを担当していたスティーブ・ジャンセンに特に惹かれ、髪形から雰囲気から真似をしようとしたが、なかなか思うようにならず悔しい思いをしたことも、今でも覚えている。

翌年には、アズテック・カメラがデビューし、オレンジ・ジュースがスマッシュヒットを飛ばして、一気にネオアコースティックと呼ばれる音楽の虜となった。
彼らと並んで評価の高かったペイル・ファウンテンズのマイケル・ヘッドが、次の僕のアイドルになった。
安価な古着で代用できそうな自然体のスタイルがとにかくカッコよくて、また髪形を真似しようと美容師に頼んだが、頭の形が違うから無理だと言われ残念な思いをした。

同じ年に少し話題になっていたのが、統一前のベルリンで活動していたアインシュテュルツェンデ・ノイバウテンで、ノイズ・インダストリアル系と呼ばれる、彼らはとにかくやかましくて過激な音楽を追求していた。
いち早くその音楽を聴くには、カセットマガジンのTRAを手に入れるしかなく、名古屋の今は亡きやまと生命ビルの地下にあったレコード屋さんまで出かけて手に入れ、何度も繰り返し聴いた。

一度興味を持った十代の行動力や探究心は決して舐められたものではなく、ネオアコースティック、ノイズ・インダストリアル、ソフト・セルなどのエレクトロと、一応ジャンル分けされたものだけではなく、その周辺に位置していたような音楽や、彼らに影響を与えた過去の音楽なども手当たり次第に聞いていき、もうヒットチャートとは完全に離れて、自分が興味を持った世間的にはマイナーな音楽を求めて聴きあさった。

アルバイトもせず大した小遣いもないのにそんなことができたのは、どこかからダビングしたカセットテープなどが回ってきたからだ。

中学の頃はあまりわからないまま、レッド・ツェッペリンの4thなどを聴いていたが、もうこの頃はプログレというよりもキング・クリムゾンの後期三部作やロバート・ワイアットの在籍したソフト・マシーン、カンタベリー系と言われる中でも即興性の高いヘンリー・カウとかスラップ・ハッピー、テクノが苦手だったから巧妙にクラフトワークを避けてカンやらグルグルやらジャーマン・ロックにもどっぷり浸かった。
米国のフランク・ザッパやキャプテン・ビーフハートの初期作にも行き着き、変拍子というものをはじめて聴いて、なるほど町田町蔵がやりたかったのはこれだったのかと気付いたりした。

もちろん同時代の音楽も聴きあさった。
おどろおどろしい雰囲気のあった頃のニック・ケイヴや彼の在籍したバースデイ・パーティ、カルトじみたサイキックTV、ソニック・ユースやスワンズ、後にニルバーナのプロデュースをやったスティーブ・アルピニのビッグ・ブラックなどは、グランジという最悪のジャンルが生まれる前の名付けようがなくでやかましくてちょっとコワいような音楽。

ネオアコ近辺では、モノクローム・セットやフェルト、EBTGから、ウィークエンドに遡りそこではじめてアフリカのリンガラと呼ばれる音楽と出会ったりもした。ヒットしたグループでは、スタイル・カウンシルやスゥイング・アウト・シスターやデキシーズ・ミッドナイト・ランナーズにも同じ匂いを感じて夢中になった。

クラッシュもジョン・ライドンのP.I.Lもまだ現役バリバリ。聴かないはずがない。

国内のアーティストでインパうクトがあったのは町田町蔵のイヌでこれも何度も繰り返して聴き、それから間もなく山塚アイのユニットであるハナタラシの噂を聞きつけた。名古屋では見ることは叶わなかったが、当時の彼が夢中で語っていたノイズグループのホワイトハウスは聴いた。黒人差別を公言し、大量殺人犯たちを褒め称えるとんでもない連中だった。内容は本当のノイズでピーガーとひたすら続くだけのものだったが、これは現代音楽の影響が大きいもので、大元はシュトックハウゼンまで行き着く。
ソニック・ユースのサーストン・ムーアも現代音楽家のグレン・ブランカの影響を受けている。

このすぐ後に大ブレイクするスクリッティ・ポリッティには『ジャック・デリダ』という曲もあり、浅田彰氏の影響を強く受けた高校生には眩しい存在だった。
僕が理系から文系に転じたのには、明らかに浅田彰氏が紹介した思想家たちの影響が大きな理由としてあるのは否めない。

高校生の頃から、他にも書ききれないほどいろいろな音楽を聴いて過ごした。
気になるアーティストの来日公演が決まっても「名古屋飛ばし」があったなら、躊躇なくた大阪まで出かけた。

昼間は水泳部で真っ黒に日焼けするまで練習して、家に帰ってからはひたすら音楽を聴いたり情報を集めたり。
とてもじゃないが、勉強する時間などなかった…。

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