Forget-me-not 戦争と革命の世紀の愛 第一章ばらの指輪
第一章 ばらの指輪
1947年4月半ば。
西公園へと続く、広瀬川沿いに咲いた桜の並木道を、色の白い金髪の優しい面立ちの青年が幼い異国風の顔立ちの男女の子供たちを連れて歩いていた。アレクサンドルとマリアの一人息子、22歳のアレクセイである。
「おーい、エリーゼにカール、あんまり遠くに行くんじゃないぞ!」
アレクセイは降り注ぐ太陽の光を浴びて半透明のピンク色に輝く桜の花を見上げた。桜の季節になるとアレクセイは三年前の夏に亡くなった姉のゆりえのことを思い出さずにはいられなかった。思えば彼女は桜の花のように儚い人であったと。ゆりえはアレクセイより5歳年長で日本風の優美な切れ長の目が印象的な美しい女性だった。画才がありまだアレクセイが幼かったころ、二人で広瀬川の写生に出かけたこともあった。
「姉さん…オットー兄さんには会えたのかい?」
アレクセイは何となく桜の花に姉の魂が宿っている気がして呼びかけた。本当に天国でこそあの二人には幸せであってほしい。姉はもちろんその恋人オットーの人生も残酷な人生の見本市のようであったから…
コロコロポロンと何かが地面に転がる音が聞こえ、アレクセイが振り返ると、姉の遺品であるオットーが贈った、センターの眩い輝きを放つ無色透明のダイヤモンドを鮮やかな赤色をしたルビーがバラの花びらのように幾重にも重なって囲んだ指輪が転がっていた。
「ああ、ヤバイ、ヤバイ」
アレクセイは慌てて指輪を拾うと、その透明な白と赤の世界に魂が奪われるような感覚に陥った。-あれは11年前の春だったな…
1936年4月16日、そう、あの日はとても春風が強くて運命の神がいたずらをしているような日であった。ゆりえは当時高等女学校の生徒であったが、小学生だったアレクセイは帰り道に仲ノ瀬橋の付近でぼうっとしながらまるで夢見るような瞳で空を一心に見上げているゆりえを見かけた。当然アレクセイは姉に声をかけようとしたが、その前に意外な人物がゆりえに声をかけた。
「こんにちは、お嬢さん。また会ったね」
「…あなたはさっきの?」
「そう、ワスレナグサの教会で君と運命的な出会いをした、オットー=フリードリヒ・ヴィッテルスバッハ、またの名をミュンヘンから流れ着いた声楽の王子とも言いますね」
オットーはローマ彫刻のように整った白く端麗な顔を破顔させた。ブルーサファイアのように美しい青い瞳が印象的な非常に背が高い若者であった。
「ごめんなさい…今日はあなたのお母さまのお葬式がやっているなんて知らなんかったんです。ただいつものように学校をさぼりたかっただけなんです」
「そんなこと怒っちゃいないよ。むしろあれは母なし子になってしまった俺を、母さんが憐れんで君に会わせてくれたのだと思っているけどね」
「そんなまさか…あなたと私では身分が違いすぎます」
姉の言い分も嘘ではなかった。彼女はアレクセイの両親であるアレクサンドルとマリアに拾われる前はどこの誰とも両親の名すら分からない孤児であったのだ。対するオットーはドイツ三大王家の一つである南ドイツのヴィッテルスバッハ家の最後の王太子。ドイツが敗戦し共産革命の嵐が吹きあれる中、両親を自殺で失ったオットー王太子はまだ2歳であったが、乳母の手に抱かれ命からがら国外に脱出。乳母はやっとのことで親戚のいる日本にたどり着いたが、見たことのない異国で路頭に迷いのちに首相となる陸軍軍人東條英機に救われた。東條は岩手県出身で真面目だが温情のある大将として知られている人には知られていた。はたして東條はこのドイツ出身の高貴な高貴な幼児を憐れみ、青年時代の恋人である佐藤しづに預け隠密に仙台で育てさせた。オットーにとって実質しづは母、東條は父親のような存在だった。この日は、オットーの母代わりであった佐藤しづが亡くなって、カトリック教徒であったしづのために街中にある教会で葬式が営まれていたのである。ゆりえはあまり学生生活になじめないのか、花壇が有名なこの教会で授業をエスケープして写生に没頭することも多かったらしい。
「身分か…昔は身分が高ければ尊敬されたけど、今は身分が高ければ高いほど恨まれ憎まれる時代だなぁ…」
オットーの美しすぎる青い目は寂しげに光っていた。
「俺だって生まれたくて王子に生まれたわけじゃないのに…でもこの身分が俺を守り育ててくれたこの国に役に立つなら俺は喜んでこの身を捧げよう」
キッパリとオットーは言った。
「ご立派なんですね…この国に生まれましたけど、世界で孤立気味で暴走しがちなこの国は大丈夫なんでしょうか?犬養首相の件(五・一五事件)といい今年の2月の件(二・二六事件)といい、政治家の信が地に落ち軍人に期待しようという世論が話題になってますけど…」
「大丈夫です、俺の父親代わりの東條さんは気持ちの温かい人ですから。きっといい世の中にしてくれる、と俺は信じています。教会でお会いしたでしょう?」
「ええ…世話好きで優しい方ですね。軍人の方がみんなあのような人ならいいのだけど」
実のところ、ゆりえの養父であるアレクアンドルは今の大日本帝国の体制について深い懸念を持っていた。政治家が世の中をコントロールできず、軍人や庶民の声が暴走する世の中というのはかつての革命時のフランスやロシアの雰囲気と似てはいないかと。もっともそれは日本の指導者にとってもあってはならない話であり、事実彼らは軍部や国内の「赤化分子」(共産主義者)の除去に躍起ではあったのだが、日本国そのものが今新たなる時代を産み落とすために揺られる難破船のような胎動を抱えているのではないかとアレクサンドルは娘にそう教えていたのだった。
「君は今いくつ?」
「16です」
「なるほど16ね…」
オットーは不敵な笑みを浮かべニヤリと笑った。
「どうだろうゆりえちゃん、いつもあんなところでコソコソとスケッチをしているのなら、
俺の家にきてスケッチをしてみたら?君の知らないこといっぱい教えてあげるよ」
「え?いいんですか…私みたいなものがお家に出入りしても…」
「何を言ってるんだ。君と俺はあの教会であのような運命の出会いを果たし、世界有数の巨万の富を持つロマノフ王朝の皇女の娘じゃないか。俺にとって君はこの世のどんなものよりも価値がある」
「は…はぁ」
「お近づきの印に君にこれをあげよう…昔の母の形見なんだ。母はオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の直系の孫なんだよ、だから俺はオーストリア帝国の皇位継承権も持っているというわけさ」
そういうとオットーは真っ赤なルビーがバラの花びらのように煌めく指輪を、ゆりえの透き通るように白くて細い薬指にはめた。ゆりえは自分の分相応な指にはまった指輪を見てため息をつきながら見惚れている。二人に気づかれないようにくさむらに隠れていたアレクセイだが、なんだか話が上手く進みすぎているのではないかと疑念を持った。そもそもゆりえとオットーが運命的な出会いをしたかどうかはともかく、何故オットーは世界有数の巨万の富を持つロマノフ王朝の皇女の娘、と強調したのだろうか。もしここに父のアレクサンドルがいたら怒ってゆりえをオットーから無理やりにでも引き離したかもしれない。ロシア革命以降、世界有数の巨万の富を持つロマノフ王朝の財宝は行方不明だが、父アレクサンドル曰く「そんなもの世界戦争の莫大な戦費のために残ってはいないさ」というが、幼いアレクセイも学校の同級生に興味津々で聞かれるほど世間の関心事ではあった。世間の憶測では母のマリアが結婚持参金としてニコライ二世から託されたのではないかと疑っているようだった…まさかオットーは母が持っているかもしれない財宝目当てで姉のゆりえに近づいたのだろうか…。でも一体なんのために。
「あら、アレクセイ、そんなところで何してるの?」
オットーと別れたらしいゆりえが道端のくさむらに息をひそめていたアレクセイに驚いたという風情で声をかけた。
「ねっ姉さん、大丈夫?」
「え、何が?」
「だって知らない外国の人と話していたじゃないか。あの人本当に姉さんに関心があって近づいたのかな?お母さんの財産が目当てってことはないの?」
「うーん、分からないけどこんな豪華な指輪を持っている人が他人の財産を目当てに近づいてくるかしら。そんなことないと思うわ」