人魚の入り江/烏龍水
小さい百合が咲いていたことを覚えている。
祖母に連れられて来たホテルは海に迫り出しており、庭からすぐに浜辺へ降りれるようになっていた。通された部屋からは、小さな入り江が見下ろせていたが、ロープが張られて立ち入ることができなかった。山育ちゆえに、海というものが珍しいというか、慣れないものというか、何にもない縹色の太平洋を波が砕ける音と共に、私はただ眺めていたのであった。
小さな入り江には降りれなかったが、すぐ脇に展望デッキのようなものが置かれていたため、祖母が昼寝をする部屋から抜け出し、景色を見るために向かった。部屋同様、水平線には船の一隻も見えない。右手には、崖と小さな岩があって、波を静かに受けていた。カメモもいなければ、周りに人もいない。ふと、崖の先を見れば、曇り空とオレンジの色があった。小さな百合が厳つい岩肌に根付いているのだ。それが、灰色の背景によく映えていた。しかし、視界に何か違和感を覚えた。端に映る岩、そこにも光る何かがある。目を凝らすと波とは違う、水の飛沫を見せた。鰭だ。だが、魚にしては大きいし、鯨にしては小さすぎる気がする。いや、鯆ならこれぐらいかと納得していると、その水の動きも消えてしまった。
暑くなってきたから建物内に入り、一寝入りし、夕食を食べ、風呂に入った後、早々に床についた。しかし、昼寝をしてしまったせいか、目が覚めてしまう。スマートフォンの時計を見ると、ニ時を過ぎた頃だった。暗い部屋の中、聞こえてくるのはエアコンと波の音である。何も見えないだろうと思ったが、起き上がり、部屋のベランダに出た。生温い潮の空気が体を包み、気持ちが悪い。あの入り江を見ると、白い波が行ったり来たりしているのだけがうかがえた。誰もいない、こんな広く暗い水たまりで迷子になったらひとたまりもないなと思っていたら、一つ、庭に明かりが動いた。記憶が正しければ、そこには粗末な小屋があった。倉庫かなんかと思っていたが、扉が開いて、中から人が出て来た。手には懐中電灯だろうか、小さな光が見える。それは迷わず、入り江の方に進んでいく。光が跳ね上がったから、ロープを超え、その先へ行ったことがわかった。そして、何かモニャモニャと男の声が聞こえた。私の部屋まで波の音に消されないのだから、叫んでいるのだろうか。すると、海面が光に照らされる。そして、その光の中でビニール袋のようなものを海に差し出すと、海中から、白い腕が伸びて、それを受け取った。その腕の色があまりに鮮明で、胃が一瞬にして縮んだ気がした。なんだか急に波の音が怖くなり、忍び足で部屋に戻った。振り返ると、懐中電灯の光は、まだ、動いてなかった。
鍵を施錠したことを確認して、布団に潜り込むが、波の音が耳を塞いでも、どうしても聞こえた。夜明けまでのニ時間。目を瞑れば、体温の感じない、白い腕が瞼に浮かんできた。
次の日、帰る時になり、このホテルを出で立ちが書いてある石碑を見つけた。曰く、昔の地元の貴族が海を恋人と称し、この地に屋敷を建てたとか。その時代の後、国防の要の一つとされたとか。近くに製鉄所の後があると聞き、帰り道に寄ることにした。最後に、入り江を周った。砂浜から海にかけて、何かが這っていったような線に、キラキラとした何かが反射している。いずれにせよ、海は美しいとは思うが、底知れぬ何かもこちらを覗いている気がして、潮騒から逃れるように、私は祖母と帰りのバスに乗ったのだった。