ぜいたくな時間/かやの夏芽

 寒い。もう陽が沈んだからとかではなく、今日は一日寒かった。大教室もゼミの研究室もイマイチ空調が効いていなくて、陽菜乃は三コマ分の講義でじんわりと冷やされていた。
 もう決めた。今日は贅沢する。
 ぽっと思い浮かんだのはいつか行ったカフェであった。ゼミの仲間と別れ、陽菜乃はすぐに自転車を飛ばした。いつも寄るスーパーもドラッグストアも素通りだ。住宅街を抜けてひたすら走る、走る、走る。前髪がなくなって耳がちぎれそうになった頃、やっと目的の店に着いた。
 やや重たいドアをぐっと引く。カランとベルが鳴って、店主が静かに「いらっしゃいませ」と呟いた。暖かな空気に包みこまれ、陽菜乃は鼻を啜った。
「お好きな席にどうぞ」
 促されて店内を見回す。仕事帰りっぽいお姉さんと、静かに本を読むおじいさんしかいない。無難にカウンターに程近いボックス席を選んだ。ふかふかのソファが気持ちいい。
 ランチタイムこそ多くの奥様方で賑わうこのカフェだが、ディナータイムは穴場である。そのことを陽菜乃は去年から知っていた。いつだったか、ゼミの先輩が連れてきてくれたことがあったのだ。たった一度だけ。美人で成績も良くて、憧れの先輩だった。確かナポリタンを頼んで、おいしそうに食べていたっけ。感傷に浸りながらメニューをめくる。『贅沢ナポリタン』の文字を見つけ、あ、と声が漏れた。ぜいたく。今日の陽菜乃に必要なもの。
「すみません」
「はい」
 ナポリタンと紅茶のセットを頼んで、あとは宙ぶらりんの時間を楽しむ。メニューのデザートページをめくったり、天井で回るやつを眺めたり、流れている音楽に静かに耳を傾けたり。ブルーライトを浴びない時間はゆったりと豊かな気がする。ゆるく泡立てたクリームみたいだ。しずかに、なめらかに流れていく。
「お待たせいたしました」
 ケチャップとウインナーがふんわり香る。陽菜乃としては、この香りだけでもう百点満点だった。
 小さく手を合わせ、フォークをくるくる回す。くたくたの野菜と厚めに切られたウインナーが『贅沢』の所以である――これも先輩に教えてもらった。論文の進め方とか資料探しのコツは聞いても忘れてしまったのに、陽菜乃の頭はこんなことばっかり覚えている。
 大きめになってしまったひと口を咀嚼する。ちょっぴり甘めのナポリタンだった。ケチャップの酸味が後を引く。少し渋い紅茶もよく合った。あのときの先輩の顔を思い出す。わかるなぁ。だっておいしい。陽菜乃は噛みしめるように時間をかけて味わった。
 ひと通り食べ終えて、再び店内を見渡す。お姉さんもおじいさんも変わらず一人を堪能している。陽菜乃もこの上ないくらい堪能した。
 贅沢しちゃったな!
 ほくほくと温かい身体をコートで覆う。お会計をしに陽菜乃は席を立った。

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