心の行方/烏龍水
「逃げられなくなったら、おいでよ。飼ってあげる。私ん家、わかるでしょ。」
私が、月二六〇時間以上働かされていたブラック企業を退職した理由は、宝くじで一等を当てたからだ。その時、同じ職場の元彼に言い放った言葉が上のものである。我ながら、調子に乗っていたが、それが現実になるとは露ほどにも思っていなかった。
それから、半年後の四月後半。
親戚から送られてきた苺でジャムを作ろうとしたら、砂糖が足りなくなったので、私は急遽コンビニに行ってきた。玄関の鍵を開けると、すぐそこに影が見える。
「ただいま。」
小上がりに三角座りをした男が、顔を上げる。異様に光る黒目と上がった口角が、無言とは対照的だった。
「部屋で待っててって言ったじゃん。」
飛びつかんばかりに駆け寄ってきた男は、答えない。風呂上がりで湿った髪の毛が、わさわさと揺れた。そんな男を片目に私はキッチンに行き、手を洗ってから、砂糖を測る。足りなかった42g。それを苺の入ったボウルへ入れ、混ぜる。ざらざらしたした感触だが、既に苺から汁が出始めていた。ラップをして冷蔵庫へ入れようとした時、そのままで食べようと残していた苺を二つ手に取る。一つは自分の口へ、もう一つは隣でへばりつくように立つ男へ。
「ほら。」
男はイチゴを手に取ることはなく、その口を私の指に近づけた。私より背が高いから屈むしかないが、躊躇はない。ヘタごと食べてしまった。
「おいしい?」
男は応えない。ニコニコと私を見上げている。
「寝ようか。」
寝室にも当然のようにくっついて来て、狭いシングルに潜り込んできた。さすがに、最初は拒絶したが、悲しげに部屋の外で丸くなっている様子を見て、今ではベッドに上がるのを認めている。
「おやすみなさい。」
当然、返事はない。電気を消すと、すぐに寝息が隣から聞こえ始めた。だが、私が少しでも起き上がる素振りを見せたら、止むだろう。
この男は、例の元彼である。
我が家に来たのは、ニヶ月前。朝、ゴミを捨てに行こうと玄関扉を開けたら、目の前にいたのである。メールのやり取りも何もしていなかったから、それは驚いた。しかし、さらに驚いたのは、そのお調子ものな口が一切話さず、目が虚空を見ており、男のポケットから延々と着信音が鳴り続いていたことだった。
さしずめ、それは人ではなく、動物として息をしている気がした。
だが、私はそれと同時に、あの自分の愚かな言葉を思い出した。そうしたら、もはや、家に男を招き入れるしかなかったのだ。
それから、男を飼っている。食事をやり、散歩をし、風呂に入れる。男はされるがままだ。少しは人間らしくなるかと思ったが、そんなことはない。ただ、隣で寝る顔は穏やかではある。
忙しいは、心を亡くすと書く。
誰かの言葉を、この頃反芻させる。心を亡くすとは、人間らしさが欠けてしまうことなのだろう。ならば、この男は、あの彼とは別人なのだろうか。
暗闇の中、そっと寄り添ってみれば、体温はあの頃とは変わってはいなかった。