勇気を出して/かやの夏芽

 もう五、六年の付き合いだった。二人で一緒に暮らしていけると思っていた。だけど無理だった。
 やっぱり私たち、ダメかも。蒼がぽつりと零して、杏介もそれに同意した。恋心だけではカバーできない何かがあることに、杏介だって気付いていた。
 何度か話し合ったその果て、蒼が先に出ていくことになった。
 喧嘩別れにならなかったのは、杏介も蒼も臆病者だったからだ。蒼が出ていく日の夜、最後の晩餐で彼女がそう言って笑った。
「臆病で心配性だから、一年半も同棲できたんだろうね」
「確かに」
 喧嘩になるかも。相手を傷付けるかも。今別れたら自分も相手もこの先幸せにはなれないのかも。でも自分が幸せにしてやる、なんて大きなことは言えないかも――だから現状維持。それで気付いたら一年半も経っていたらしい。
 ごちそうさま、と二人で手を合わせる。揃って行う全てのことが『最後』の余韻を持っていて、何をするにもいつもより時間がかかった。悲しくなるくらい和やかな晩餐だった。
「ね、今考えてること言っていい?」
 蒼が皿を洗って、杏介が拭いて仕舞う。その流れ作業の中で、蒼がふと言った。
「いいよ。何?」
「覚悟が足りなかったのかなって」
 何の? 誰の? どう返そうか悩んでいる杏介の顔を見て、蒼は小さく微笑んだ。
「私たち二人とも、相手を幸せにしてやろう、ずっと一緒にいようっていう覚悟が足りなかったのかなって、今思ってさ」
 蒼がスポンジを絞る。指の隙間から真っ白な泡が溢れ出る。彼女は丁寧に泡を流し、手を拭き、まだ布巾を持って棒立ちをしている杏介の方に向き直った。
「今、私、ちょっと頑張るから、聞いてて」
「え、うん」
 うん、って。杏介は自分の返事を情けなく思いながらも、「頑張る」と言った蒼のことをじっと待った。蒼は目を逸らしたり見つめたり、うろうろと視線を彷徨わせながら、必死に言葉を組み立てているようだった。
 やがて、意を決した顔つきになる。
「私、やっぱり、杏介と一緒にいたい。喧嘩してもいい。仲直りもしたい、から」
 後半は声が震えていた。半分泣きそうな顔になっている。杏介は抱きしめたい気持ちをぎゅうっと堪えた。抱きしめるのは、違う。肌に触れることで誤魔化したら、言葉にしなかったら、それは、蒼の頑張りに対して誠実じゃない。
「俺も、」
 言いかけて、待って! のポーズをした。伝えたいのはそんな短いことじゃない。蒼が何か返す前に、必死に吐き出していく。
「俺もそう思ってるのはそうだし、てか蒼を幸せにしてやれるかとかずっと分かんなくて、蒼だって俺を幸せにできるかとか自信ないと思うし、でもそれって俺も一緒で、だから、えっと、えっと、待って待って」
 見切り発車で紡いだ言葉は、ちゃんと文章になってくれない。蒼みたいにシンキングタイムを取ればよかった。でも今更タイムはもっとカッコ悪い。杏介は人生で一番頭をフルで回転させた。――結果として、たぶん、蒼の二倍は黙っていただろうけど。
 考えているうちにくしゃくしゃになった布巾を握ったまま、杏介は口を開いた。
「一緒にいたいよ、俺も。でも俺一人で蒼を幸せにしてやる自信は、ちょっと、ない、足りないから、蒼にも手伝ってほしい……」
 尻すぼみに言い終わってから、杏介は、手伝ってってなんか変だけど……と小声で加えた。杏介も半分泣きそうだった。蒼はもっと泣きそうだった。
 蒼が、杏介の手を握る。
「手伝う」
 真っ赤になった目が、杏介を見つめている。
「手伝う、ちゃんと、だから杏介も、私のこと、手伝ってくれたら、嬉しい」
「ありがとう、俺も、手伝う、もうめっちゃ手伝う」
 鼻の痛くなるような声を交わして、杏介は今度こそ蒼を抱きしめた。ありがとう、ありがとう、と、どちらからともなく感謝して、最後には鼻をすすりながら笑いあった。
 きっともう一年も経てば、今日を思い出して思うのだろう。あの日二人で勇気を出して、よかったと。


今週はかやの夏芽のターンでした。
お題は特に設けず、今書きたいなぁと思った話を書いた感じです。

次回は烏龍水さんのターンです。
お楽しみに!

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