まるで春のような/かやの夏芽
俗に言うブラック企業から足を洗ってまず、拓哉は引っ越しした。今度の職場から二駅、駅からは徒歩十分弱、スーパーもドラッグストアも近所にあって、チャリだけで生活が成り立つ良物件である。
土曜の午後、友達の手を借りてなんとか段ボールの搬入を終え、クッションフロアを敷き、メシを奢り、そうしているうちに空はすっかり夕暮れの色を失っていた。
だいたい必需品の箱は開封し終えたし、あとはまぁ追々。拓哉はそっと床に身を転がした。前の部屋からそのまま持ってきたはずのクッションフロアも、今日だけは新品みたいな感触だ。今日から自分の部屋だけど、ここにはまだ誰のものでもない空気が漂っている。新品のフリをしているクッションフロア、ぴかぴかの窓、買い替えたカーテン。
ふと脳裏に浮かんだのは、今までの暮らしと、これから始まる生活への妙な期待だった。窓から入る風でさえ「はじめまして」の顔をしているようでどきどきする。期待と不安が入り混じった、なんて言い古された表現だ。でも言い古されるだけのことはある。このどきどきは完璧に期待と不安の集合体だった。
始まるんだ、全部。ここから。
三月の終わりみたいなどきどきを抱えて、拓哉は夕食の準備に取り掛かった。