ブルーな朝/かやの夏芽
大喧嘩をした翌朝、泰知はもう姫香の部屋にいなかった。
「あーあ」
低い声で呻き、姫香は再び布団に身を沈めた。昨晩の諸々を思い返し――すぐにやめた。思い出したくもない。さすがに言い過ぎたし言われ過ぎた。あーあ。大学入って三年目。一年の後期で出会ってから徐々に仲良くなって。やっと去年付き合い始めて。もしかしてまだ一年経ってなくない? お互い記念日に疎いから分からないけど。とにもかくにも「あーあ」である。
布団に沈み込んだまま、ひっくり返った部屋を眺める。昨晩あいつが寝たソファは空っぽだ。リモート用のワークチェアを占拠していた黒いリュックもない。何もない。ほんとに? 何も? 未練がましく部屋を見渡す。
ふと、パソコンの横に見慣れたスマホケースが見えた気がした。体をひねって視界を正位置に戻す。赤のレザー。間違いない。枕元をひっかき回して自分のスマホを取る。通知が一件。「taichi0803がストーリーズに追加しました」。ほんの十数分前だ。開けば、グラデーションの背景に小さな文字で、
「朝の散歩、頭冷やす、帰ったら仲直りしなきゃ……」
姫香はもうちょっと泣きそうだった。ぐにゃぐにゃの視界でキーをタップする。
『昨日は言い過ぎた』
『ごめん』
一人ぼっちの部屋に通知音が鳴る。
『私も頭冷やしてくる』
赤いレザーの隣にピンクのファーを並べて置く。姫香は適当に身支度をして、財布と鍵だけを抱えて部屋を飛び出した。右に行ったか左に行ったか。直感だけを頼りに朝の歩道を駆ける。散歩ってどこに行ったの。本当は部屋にいた方がよかったんじゃないの。でもただ待つなんて性に合わない。だから走った。二十一歳の全速力で。早歩きに毛が生えたみたいなスピードで。それなのにもつれそうになる足を必死に動かして。
「姫香?」
声に振り返る。通り過ぎかけたコンビニの前にその人はいた。髪も服も全体的にボサボサの姫香を見て、しっかり驚いている。あんただって昨日と同じ服でボサボサ頭のくせに! 下唇を噛む。
文句より先に、ごめんよりも先に、姫香は泰知に抱きついた。よれよれのパーカーに顔をうずめて、そこでやっと小さく「ごめん」を言った。自分の涙で鼻先が温かい。
「俺も、ごめん。仲直りしてくれる?」
しょげた声。ゼミで教授に叱られたと言っていた日よりずっと元気のない声だった。
「する」
鼻をすすって顔を上げたら、大好きな顔が傍にあった。
「ありがと。ごめん。好きだよ」
「私も好きだよ」
朝のコンビニの前でギュウギュウに抱き合って、二人はやっと我に返った。幸い、ほかに人影はない。店員には見られたかも? という泰知の呟きには知らんぷりをする。
姫香は棒きれみたいになった足を引きずりながら、泰知と手を繋いで帰った。喧嘩して、走って、仲直りして、なんだか青春みたいな朝だった。