【掌編小説】おいしく飲み下して/かやの夏芽

 毎週水曜は全部署ノー残業デー。
 早く帰れる日だから、みんなウキウキ、ワクワク――などということはなく。給与締め切り日を目前にした経理部のフロアはこれ以上ないくらいピリピリ、イライラに溢れていた。
 月末だけでもノー残業デーなんてやめない? こんな空気吸ってたら肺がドブ色になりそう! と心の内で悪態をついて、珠希はキーを叩いていた。ガタガタ、ダンダン。今日はどんな動作にも濁音がついて回ってしまう。
 実働八時間、拘束九時間のお勤めを終える頃には、肺どころか腹の底までドブ色になったような気がした。それでも今日はノー残業デー。まだ十七時過ぎである。珠希は腹の底の色をなんとか陽気にしたくて、普段よりはちょっとお高めのスーパーに足を踏み入れた。
 カゴを取り、適当に目を走らせながら必死に冷蔵庫の中身を思い出す。トマトが一個半、アボカドが半分、レタスが四分の一……。おつとめ品コーナーまで来て、珠希は急にカプレーゼの気分になった。モッツァレラと生ハムがいたのだ。家に帰ればドレッシングもある、トマトもある、バジルはないけど緑ならある。あと、飲みかけの赤もちゃんとある。
 おつとめ品ばかりが入ったカゴをレジに通す。こういうときはセルフレジがありがたい。あとはヒットチャートのプレイリストでも回していれば家に着く。
 一〇曲も聞けば帰宅できた。まだ一八時半である。この瞬間だけはノー残業デーがうれしくなる。マフラーと手袋を脱ぎすて、コートをベッドに投げ、そのままの勢いでサッとシャワーを浴びる。
 オールインワンのジェルを顔に塗りたくっても、まだ一九時だ! 珠希はうれしさのあまり、小さくガッツポーズをした。ここからは長い夜だ。なんでもない日のうれしい何かこそ祝うべきである。お気に入りの皿を出し、お気に入りのグラスを二つ出し、お気に入りの洋画も流し始めた。
 映画をBGMに、皿にチーズと野菜を交互に並べる。今日のドブ色エピソードを塗り潰すように、レタスを、チーズを、アボカドを、トマトを重ねていく。数字の打ち間違いも、カン違いによる怒られも、何もかも見えなくなるくらいたっぷり積み上げて、最後にドレッシングを好きなだけ回しかける。珠希は口笛を吹いた――もちろん、ご近所に配慮した音量で。
 テーブルにクロスを敷いて皿を置く。向かいのイスには、睡眠の相棒であるサメ君にご着席いただいた。完璧なるハレの日の完成だ。二つのグラスに赤を注ぎ、なんでもない日に乾杯した。
 日々の鬱憤はおいしく飲み下すに限る。これが珠希の人生をよりよく生きるコツだった。


お題:生ハム
お題提供は、週末の遊び相手です。

いいなと思ったら応援しよう!