春を取り戻せ/烏龍水
若い頃は夫婦互いに、金もなく、時間もなかった。だから仕事に明け暮れ、日付が変わる頃に家に帰って寝る。もちろん、朝は顔を合わせることはほとんどなかった。だから、子どももいない。
私の定年を迎えた最初の夏。
一個上の夫は何もない日常に慣れてきたようだが、私はソワソワしていた。この手に握るは、回覧板できた近くの神社で開催される夏祭りのお知らせ。提灯の絵が華やぐそれは、何処か、自分の中に隠れていた童心を騒がせた。
「ねえ、これ、行こうかしら。」
1人で、と付け加えそうになったが、夫の顔を見て飲み込んだ。てっきりそういうものは年と共に好まなくなったかと思っていたが、本から顔を上げたその目がキラキラとしていた。
「いいんじゃないか、土曜日何もないし。」
飲食店に勤めてたため土日祝日は必須出勤だった夫が毎日ホリデーなのに、癖で言った。
「そ、そうね。」
「浴衣とか、着て行くか。」
「ゆかたぁ?」
浴衣なんてもの持っていたが、年相応ではない柄だから買い直さなくてはいけない。
「お義母さんのがあるだろ。」
「つ、使えるかしら。」
「見てみようか。」
箪笥の奥底に眠った、母の形見を取り出そうと夫が立ち上がる。使えなかったらどうなんだ。新しいのを買ってしまおうか。それより、彼の浮かれた様子に、言い出しっぺである私が引き気味なのが気づかれてはいけないと思った。
結果、母の浴衣は使えた。
インターネットで調べた着付けで最も簡単なサイトで見て、やっとこさ、形にして部屋から出たら、夫は甚兵衛を着ていた。
「簡単そうね。」
「汗すごいな。」
クーラーがかかったいたのに、着付けで大汗をかいていた私を見て、腰に挟んでいたタオルで首の汗を拭こうと背後に回った彼だが、なかなかその感触がおとづれない。
「どうしたの?」
「いや、、」
夫が離れる気配がする。何か変なものでもついていたのかと聞こうとしたら、彼は目を押さえていた。
「どうしたの?」
二度目の問いかけに首を振る。ただ黙って首を振る時の彼は、何か言いたいときの仕草だった。
「白髪が、としを、とったとおもって。」
自分より年下の妻が思っていたより、時の流れに変わってしまっていたことに驚いたらしい。「すまん。」
その謝罪には、楽させてやれなかったことと、この歳になるまで放っておいた罪悪感があるのだろうか。
「いいのよ。まだ死なないから。」
私は微笑した。彼のなんとも、変わらない仕草に、あの黒髪豊かな青年が一瞬でも蘇ったから。
「これから楽しいことしましょ。夏祭りいきましょ。」
目を押さえていた手を取る。大した彼の目は赤くなっていなかった。
「行く。」
夏祭りは楽しかった。
りんご飴はキラキラしてて、まさに食べられる宝石のように屋台に並び、綿菓子屋の屋台主はまさに雲を捕まえてきたとばかりの顔で座る。今時、カステラやポテトフライも屋台にはあるのかと、使いもしないお面を二人で被って歩いた。
「楽しいわね。」
「ああ。」
もぐもぐとイカ焼きを飲み込んだはずだが、彼はもそっと小声で呟いた。
「若返ったみたいだ。」
それをまだ衰えていない耳が聞き取った。
「じゃあ、このまま楽しいことやってたら、わかがえっちゃうかもね。」
「三十代ぐらいか?」
「本望は二十代ね。」
それに二人で大声で笑うと、すれ違った子どもがびくりとしていた。
そう、このまま、あの時、私が一番綺麗だった時にできなかったことをしていれば、今が一番、綺麗にこの人の記憶に残ると思うのだ。
「次は、なにしようかしらね。」
「若返るなら、温泉かな。」
「その言葉、忘れないでね。」
みかん飴を頬張る。
今も昔も、水飴は歯にくっつくのだった。