tam-chan’s ″随想録″ その5:『“大時計” のこと 』
子供の頃、ときおり父母に手を引かれて曾祖父の住む旧家を訪問した。
額を畳に擦り付けるようにして大人たちが親交の挨拶を交している間、
私はいつもその家の古い巨大な “柱時計” を見つめていた。
巨大な “柱時計” に畏怖していたのだ。
家には、訪問者にしか分からない独特の匂いがあり
時間の流れがある。
巨大な “柱時計” は それらを象徴しているように見えた。
狭い社宅に親子三代五人暮らしだった我が家には
ごく普通の “目覚まし時計“ が一つあるだけで、
時の番人のような 巨大な “柱時計” はなかった。
どうしてあんなに大きな音で時を刻むのだろう。
どうしてあんなにゴーン・ボーンと人を驚かせながら時を告げるのだろう。
いやおうもなく正確なこの機械は、
単に便利な機械というだけではなく、
その奥に “人“ には抗しがたい力を秘めていることを、
子ども心に感じていた。
やがて、曾祖父が死に、
叔父が死に、
叔母が死んでいった。
仏壇に手を合わせつつ、遺影を不思議な気持ちで眺めていた。
この人はもういないのだ。かつては共に生きていたのに。
人が一人ずつ欠けてゆく家の中で、
巨大な “柱時計” だけは変わらず生き続けている。
「ぼうず。俺が怖いのか。
無理もない。
俺の刻む一刻一刻が、
お前たちにとっては抗うことのできない死への近づきなのだからな。
しかし、よく考えろ。俺の刻む一刻一刻の意味を。
お前には、まだまだ時間があるのだから」
時は過ぎ、四十四歳になった私は、
ようやくそんな巨大な “柱時計” の本心が分かってきたように思う。
残された時の量が、多いのか少ないのか微妙な年齢…中年。
巨大な “柱時計” の刻みの音が、
最近は私への頷きの音に聞こえてくるのだ。