『取材・執筆・推敲』があえて「書かなかった」こと
古賀史健さんの新刊『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』を読んでいる。仕事に追われながらも、先が気になって本をなかなか閉じることができない。ライターという職業に就き、本書を購入した人のほとんどは、きっと今、私同様に「巻を措く能わず」という気分になっていることだろう。まだ全部読み切れていないのだが、それでも感想をつぶやこうと思ったのは、この本に古賀さんが(おそらくあえて)書かなかった、ライターにとって極めて重要な素養があると思ったからだ。
職業ライターにとって極めて重要な素養とは何か。
異論もあるかもしれないが、私は端的に言って「教養」だと考えている。
歴史、文学、政治、経済、映画、科学、医療、健康、文化全般……あらゆる分野の広汎な知識があればあるほど、取材で聞く話を深めることができる。原稿も面白くなる。語彙も多ければ多いほどいい。その何よりの証明が、この『取材・執筆・推敲』という本だ。これまでに刊行された数ある文章本の中で、本書が際立って面白い理由の一つは、筆者が並外れた「教養」の持ち主であるからに他ならない。
例えば160ページ。
筆者は「ライターの機能」について次のように書く。
ことばとは、口から放たれた端から消えてなくなる、一陣の風のようなものだ。昨日あなたが誰かと交わしたことばはもう、時間の彼方に吹き流されている。明日の朝にはきっと、記憶のなかからも消えていく。
そんなことばを、そこに込められた思いを、大切な情報を、どうやって残していくのか。この難問をクリアすべく人類はーー記憶にとどめやすいようーー詩歌をつくり、文字をつくり、各言語ごとに独自の表記ルールを整え、それを紙や木簡に書き記していった。意外なところでいうと、エジソンの蓄音機だって、その延長線上にあるものだ。彼は音楽を聴くために蓄音機を発明したのではない。音声を記録すること、そして音声の記録された円筒型レコードを手紙のようにやりとりすることを想定して、蓄音機を発明した。
ライターの機能もここにある。
ライターの「記録」という機能を比喩的に説明するために、エジソンの蓄音機を持ってくるには、もともとその発明の経緯に関する知識を持っている必要がある。本書には、これに類した例え話、エピソード、逸話があらゆるページに登場する。しかもそのどれもが、すこぶる面白い。筆者は書くことを「翻訳」に例えているが、書く行為自体、「ある概念を、何か別のものに置き換える」ということだ。置き換える対象が広ければ広いほど、読者が予想もつかない表現、発想、面白さが生まれる。
ライターとタッグを組む編集者もまた、博覧強記であればあるほど優秀であると断言していい。超一流の編集者と一度でも仕事をしたことがあるライターなら、彼ら、彼女らが例外なく恐ろしいほどの教養の持ち主であることを知っているだろう。
しかし一方で、ここにこそ筆者の誠実さを感じるのだが、この本の著者(そして編集者も)は、絶対に自分の教養を誇らない。むしろ逆に「浅学非才」であることを強調する。それは謙遜ではなく、おそらく本当に「自分は何も知らない」と思っているからだ。
本書の第1章、「取材」では、「情報をキャッチするのではなく、ジャッジする」ことの重要性が述べられている。まったくの同感だが、ジャッジするためには、比較対象できる存在、自分なりの評価軸が必要となる。それこそがライターにとっての「教養」に他ならないと、私は思う。
古賀さんはきっと、ライターにとって教養が大事であることなんて、百も承知だろう。そして教養が、一朝一夕に身につくものではなく、何年も何十年もかけて蓄積していくものであることも、ご存知のはずだ。『取材・執筆・推敲』を読む若いライターの方々は、ぜひ古賀さんがこの本を書き上げるまでに、どれほどの本を読み、人に取材し、教養を積み重ねてきたか、想像してみてほしい。きっとさらに理解が深まるはずだ。
古賀さん、本当にすごい本だと感じました。柿内さんの編集もすばらしいの一言です。折に触れて読み返します。