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ゆめみのまち①分水嶺のご案内
10月のある日、思い立って島根県へ向かった。
岡山駅から始発の特急やくもに乗る。乗り込むと車内は照明が少なくて薄暗く、期待していたコンセントや前の座席の網ポケットに行き先の紹介冊子もない。当然の如く社内販売もない。
振り子のように車体を左右に揺らしながら特急とは思えない悠長な速度で走る。乗車時間は3時間もあるのに、車体が揺れるので読書や作業には向かない。そのせいか、半分くらいの席を埋めている人たちは皆、窓の外をぼんやり眺めるかうつらうつらとしている。薄汚れた窓に映るのは雨に濡れた草の緑とセイタカアワダチソウの黄色だけだ。
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永遠に思える緑と黄色を見続けて遠のいていた意識を呼び戻したのはポンという車内アナウンスの開始音だ。
「分水嶺のご案内をいたします。」
このトンネルを抜けると川の水系が変わり、列車に向かって流れていた川の流れが列車と同じ方向になるのだという。分水嶺のご案内。これまで聞いてきた幾多のご案内の中でもささやかで美しいご案内だと思ったので、忘れないように心にしまう。
出雲市に近づくと列車は宍道湖の湖畔を走りだす。海とは違って家々も湖の間際に建っている。こんなに巨大な水が近い暮らしとはどんなものなのか想像しようと目を凝らしたが、家々はひっそりと沈黙していてその息遣いを伺うことはできなかった。
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分水嶺のご案内をいたします。
列車は次の上石見駅を通過いたしますと、谷田峠を貫くトンネルに入ります。地元ではこの峠を「たんだだわ」と呼んでいます。鳥取県と岡山県を跨ぐトンネルであると同時に、日本海側の日野川水系と、瀬戸内側の高梁川水系の分水嶺でもあり、列車に向かって流れていた川の流れが列車と同じ方向へと変わります。まもなく伯備線で最も標高が高い駅、標高446mの上石見駅を通過いたします。
分水嶺のご案内でした。ありがとうございました。