土地との交際考
人間と交際関係を維持するのに、常に繊細な距離感の調整や配慮、謙虚な姿勢が必要なように、土地との交際関係においても同様の努力が必要であるという直感がある。私にできることはここで謙虚にあり、感謝して、一方的に愛することだけだ。
土地との交際について考えながら向かった先で思いもよらず平山郁夫の絵を観ることになったのは偶然ではない気がする。
今日まで平山郁夫の絵を、引いては風景画をつまらないと思っていたけれど、平山郁夫がつまらないのではなく、私がつまらなかったのだと分かる。私が平山郁夫と向き合えるレベルに達していなかっただけである。もちろん今も達しているとは言えないが、以前よりはマシになったということかもしれない。
この人は愛する土地を、描くことで愛撫する。もう失われてしまったパルミラやバーミヤンがかつてたしかにそこに存在したことを私たちに愛おしげに語るのだ。愛する行為として。
人も土地も逆らえぬ宇宙の法則によって進行形で乱れ続けて、混沌へと近づいている。
ある形状を保ち続けているように見える人も、土地も、今というフレームに残像として意思として現れ続けているにすぎない*。土地を描く、記録する、ということは人と土地の意思の交わる瞬間の交歓を、結実させる行為なのかもしれない。
数年前に訪ねたウイグルの土地の絵を観た時に、この絵に呼応する土地の記憶がある(平山郁夫と語り合うことができる)ということの豊穣を噛み締める。歳を重ねていく中で蓄積されていく二度と奪われたり失うことのない財産があるという事実は喜ばしいことのひとつ。
*水野しず『親切人間論』「演繹」より援用