何者でもない、という事。
人は人という鑑を通して自己をみている。
そこには他人という概念のもとに成り立った自分が写っている。
では人以外の何かに映った自分は、なんなのだろうか。
ある時は、巨大な何か。
ある時は、厄介者。
ある時は、只の餌。
ある時は、そのもの以外の何か。
結局のところ、相対するものによって姿が変わってしまうほど、その実態ははっきりしていないものである。
そのはっきりしていない何かを理解しようと、言語を作り、文化を創り、生きるとは何かを考えた末に、生きる事とはなんなのかを忘れてしまった。
何として生きるかを、意志というエゴをもってして、選択できることは、人として生まれてきた上での唯一の幸せであろうと思う。
ただ、それを選んで、決めたとて、
結局のところ、鑑に投影した自己は
何者でもないのである。
それほどに、人が決めた自我という概念は
脆い。
我思う、故に我あり
という有名な一文があるが
それはその思想の中の何かであり
ひとまわり大きな世界において
ほんのちっぽけな一つの理論や思想のひとつであることでしかない。
その思想の中では極めて重要な自己を肯定するロジックが証明出来る自己は
その実、何者でもないのである。